論文集
1、「チャイム」
2、「お受験と高校受験」 やさしい教師学入門(日本評論社)より
3、「部活」
4、「おは」への投稿
5、「ちお」増刊号への投稿
6、「おは」連載 不機嫌少女全文連載
7、「おは」NO36 内申書はどう受験に影響するのか 子どもの文化資本が内申書を左右する時代
9、「おは」NO40 特集U 携帯電話、持たせていいの?から「学校でトラブルが多発するわけ
18、進路に関わる学校の受験生や家庭の問題について (日本評論社 掲載)new
コメント
雑誌「おそい はやい」 ジャヤパンマシニスト (NO.9)において「対論 チャイム いる?いらない?」に投稿することになった。「いる」の立場から、基本論文は土井が担当したが、この論文を「おは」において発表する前に基調論文を作りそれを、「おは」の編集人である岡崎研究員に見てもらい、再度、「おは」向けに書き直すというスタイルをとった。さらにその論文を岡崎研究員に加筆、補充、してもらいこれを「おは」編集室に出して、そこで、またおはのスタッフによってなおしていただくというかたちを取った。すなわち、5回草稿が練られたことになる。このスタイルは、いわば、基調論文において、徹底的な分析を試み、それを「おは」の読者向け、いやむしろ、岡崎研究員以外の「おは」スタッフに向けて挑戦的にぶつけるというスタイルになったわけだ。まあその反応は、「おもしろいけど、厄介なやつがけったいな内容で書いてきたな」といったものであったように思う。このプロセスでは、編集人でもある岡崎研究員にたいへんな迷惑をかけたことになるのだが、他方で、岡崎編集人と「おは」スタッフの教育に関する思考パラダイムの超異次元的差異を垣間見ることができた。教育に関してある意味で「突破」した岡崎研究員とその彼にぶら下がる突破しきれない「おは」スタッフ(ほとんどが女性であるが)の読者に対峙する以前の弁証法的綱引きが感じ取れておもしろかった。といっては、彼らに対して不謹慎かもしれないが。
そんなわけで以下において、基調論文と発表論文までを続けて載せてみよう。
1、基調論文
「チャイムとは」
学校(おはが対象にしている)は、国家もしくは権力(恣意的権力などの広義の意味)が教育制度を通じて子供(小さなひと)を「人間化」していくための「システム装置」である。この「システム」とは、「複数の要素が有機的に関係し合い、全体としてまとまった機能を発揮している要素の集合体だ。(広辞苑)
この学校、言い換えれば学校装置は、時間、空間、行動、意識、心性、課題達成などを管理対象とし、子供の周りに管理ウエブ(Web)を張り巡らせている。また教師はこの管理を執行するエージェント(代理人)の役割を担う。
子供(小さなひと)はこの装置で多方面から加工されることによって「人間」となる。ここでいう「人間」とは学校を通過して加工された結果、できあがった「人間」である。つまり「人間」とは、近代において発見、定義づけられた「人間」を言うのであって、いわゆる広い意味での「ひと」をさすのではない。
子供(小さい人)は学校という装置を通過することで学校の塀の外でも適応していける「人間」となる。この「人間」は社会に在っても、先に述べた、時間、空間、行動、意識、心性、課題達成などをうまく自らコントロールして働いたり生活することが出来る。もちろん、学校においてこれらのコントロールのやり方を肌身感覚として感性に刷り込むことに失敗したり、不十分だったりすると社会でも何らかの不適応を起こすことになる。
またこの装置は100パーセント、歩留まりゼロで加工することはできないので、首尾よく学校生活を送れても完璧なる「人間」にはなりえないだろう。
ところで、一般的には学校は知識を与えられたり、人間関係の付き合い方を身につける場と言われるがこの言説だけでは不十分だろう。たとえば、成績がまったくだめな子供(小さなひと)であっても、また喧嘩などのトラブルを引き起こす厄介ものであってもそれは表面的な現象でしかない。彼らが学ぶことは「知識は与えられたものを覚えることであり、人間関係は自分と関わる力関係や周りの行動ペースや雰囲気を読み取り、トラブルを出来る限り回避してより良く関係を保つことが、よりベターである」ということである。さらにこのことが「より価値あるものとして」自然に考えられるということを訓育されるのだ。こうしたセンスを身に付けるということが「人間化」するということだ。
したがって、学校の子供(小さい人)の時間管理は、当然必要な要素となる。彼らが時間に関して学ぶのは「時間を守る」というだけではない。
学校での時間管理とは、明確な他者もしくは匿名の他者によって為され、その適切なる時間配分が、決められるのであり、それを自主的に守り抜くことがよりベターである(それが貫徹できようがそうでなかろうが)ということを「常識化」することである。また決められた空間、課題、行動を、さらにはあらかじめ決められた心性を持ち(いわゆる熱心、やる気、前向き、自主性などの気持ち)決められた時間内に達成することを良しとし、これを「常識化」することを訓育されるのである。
したがって学校のチャイムを鳴らすか鳴らさないかは時間管理の経済策の問題となる。鳴らすことによって先に述べた「常識化」が効率よく稼動するのならば鳴らせばよい。鳴らさなくても時計を見て効率よく子供(小さなひと)が動けるのなら、時間管理が心性に刷り込まれているのだから鳴らす必要はあるまい。
もしも、チャイムなどの物理的音声によって子供(小さい人)の行動を規制するのは、彼らの自立的行動を期待する希望的視点や、ヒューマニズム的観点から「よろしくない」と考えるのはまさに学校での時間管理の本質を看破できない「よろしくない」発想である。いやむしろ完全なる想像力の欠如から発せられたおめでたい「常識化」のなせるものといえよう。
結論から言うならば「ノーチャイム」で学校が機能するということはそれだけ他者、もしくは他者に恣意的に操られる子供(小さい人)の時間管理が経済策として成功しているということだ。
ところで現状では子供(小さなひと)の時間管理はなかなか厄介であり、彼らの行動は常に時間を守らない方向へ向かい続ける。ノーチャイムはピンポイント作戦として有効だが、継続は不経済であった。まあそれだけ今の学校では時間管理を徹底できないというところだろう。それはまさに子供(小さなひと)を「人間化」する不経済性を意味しているのだ。
2、書き換え
「時間厳守」を「チャイム号令」でたっぷり叩き込まれるがいい
学校において時間は2つの使われ方がされている。ひとつは、あらかじめ、決められ、与えられ、制限された時間。もうひとつは、自分で自由に出来る時間だ。
前者では、チャイムという号令が使われる。たとえば、50分と10分のインターバルで持久走の授業の後、10分後に方程式に取り組む。あるいは、20分で昼食を平らげ、放課へ突入。6時30分には、部活動を終えて完全下校。といったものだ。
後者は、学校では限定的なもので、チャイムによる拘束時間のレンジを長くして、自分たちで自由に何かやる。という形をとる。今流行りの総合学習などは、こういった使い方も提案されている.しかしほんとの自由時間は、学校の外にあるだろう。もちろん、学校の塀の外が、学校化されていないのが条件となるが。
学校で後者のやり方を実践し、それが成功すれば、自由闊達、先進的な学校ということになるだろう。前者のようにチャイムは必要としないかもしれない。
しかし、少なくとも私が経験した学校の実状からすると、どうも後者のような授業形態をイメージできないのだ。チャイムすら守らん悪ガキが多く、むしろチャイム着席を注意するとここぞとばかり、絡んでくるのである。注意すれば胸倉のつかみ合いになるし、無視すると、「オレらーを無視しているおまえに何もいわれる筋合いはない」とますます言うことを聞かなくなる。チャイムをわざと守らないことで、教師との対立点をつくりそれをかるーく楽しむ。といったところだろうか。
もちろん一部の生徒に見られるツッパリ行為といえばそうなるが。これがけっこう他の生徒にも広まる。「あいつらが、勝手にやっていて、何でオレらーばかり注意するのか」といわれ言葉に詰まること日常茶飯事。まあ生活指導だけで学校が回っていくわけではないが、悪ガキに振り回され、授業が成立せんということが普通である。
たいていクラスがパンクして最初に、やることは、チャイムがなったら、教室に戻る。授業中は勝手に外を出歩かない。あたりからだ。もちろんこの時のチャイムは必須である。チャイムの音が聞こえたら「さあ、教室へいかにゃ」という態度を示せ。が一番悪ガキにはわかりやすいようだ。
また、授業中に外から「○○ちょっとこい」などと悪ガキに呼び出されんよう時間中は居るべきところにおらせんといかんしな。
私のそんな経験からするとチャイム号令は「時間厳守」の学校における日常的必要不可欠なトレーニングだと思う。多くの悪ガキはすでに幼稚園の頃から時間を守らんかったと言っている。もちろんきちんと時間を守る生徒が多数派ではあっても、ちょっとしたこちらの油断で、時間厳守はもろくもくずれさる。
だから小中学校ぐらいまでは、「時間厳守」を「チャイム号令」で叩き込まれるのがいい。もちろんこうした時間のしつけを学校に期待していただける、という受け入れ条件が保護者にあることが求められるが。
ノーチャイムのような実践は、よほどしつけの行き届いた上質の生徒には有効だろう。あるいは、学習に前向きの反応を示す生徒にも有効かもしれない。しかしこの「しつけ」は、かなりの教育技術が求められる。時間という制限はなくならないのだから、「時間厳守」を自ら自主的に肌身感覚として身に付けさせることが必須条件になる。チャイムをなくすということは時間を自由に操作できるということではない。せいぜい、拘束時間のレンジを50分より長くするか、あるいは、短いユニットにして、それぞれに小さな到達目標を設定し配置して生徒を「ぼって」いくか。どちらにせよチャイムによる時間厳守が、陰になっただけである。
ノーチャイムは私も経験があるが、これによって本当に学校の生徒に対する時間管理を取り除いたという開放的実感をもてない。つまり、「学校は生徒の時間を管理する」「生徒の時間を管理するのが学校」という学校そのものの存在から、抜け出せないのだ。
私からすると「チャイムのない学校」は、生徒の生活基盤より生じる質の高さと、ハイソな教育条件を可能ならしめる学校地域性を感じる。おそらく多数派に属するであろう中くらいかそれ以下の学校は「まずはチャイム着席から」ということになるまいか。
私は学校に対し明るい夢を描くことに、いささか疲れを感じている。まあ、悪ガキに「おっ おまえ、チャイム守れたな」といって「すごいだろう」とガキが答える。そんなレベルの会話を毎日やって、どっかに飛んでいかんように引き止めているのですから。しょうがありませんが。
「時間厳守」を「チャイム」でたっぷり叩き込まれる。そんな学校のトレーニングを通過して、そこから、本当の時間管理を突き破る。そして社会ではこの両者のやり方をうまく使い分ける。そっちのほうがいいんじゃないかと。つまりはこの考えは、学校のきらきらした美談的役割を過小評価した、夢も希望もない考え方になるのですが。
時間管理の自主性を学校で身につけるなんてねぇ。それは学校の外で身につけたほうがましのような気がするのですが。違っとりますかこの考え方。
3、岡崎研究員による校正
「時間厳守」の習慣を「チャイム号令」でたっぷり叩き込まれるがいい
岡崎研究員よりコメント
『お・は』への掲載は、原論文を見たときに、すでに決着していた。これは、読者の理解を超えるだろうということである。つまり、現在支配的な近現代教育パラダイムの範疇を念頭においたとき、この論文は自由すぽーつ研究所が積み上げてきた理論的な到達点にある。したがって、殆どの人には理解できないということになる。本論文を表面的に理解しようとする人、つまり質的に理解できない人々には「むつかしい」あるいは、「理論的すぎる」という印象を持つに至る。理解できないこと、難しいことは、それ自体に希望や可能性があるということであり、わかってつまらない論文に比べれば、雲泥の差があることは当然の事なのである。 が、『お・は』は商品である。したがって、岡崎はこの土井論文をどのように、読者に分かるようにして、かつ、わからないように本誌に潜り込ませるかというところに腐心した。むろん、反響はそれなりにあり、単純なヒューマニズム批判ではないというところが理解された向きもある。
この『お・は』の「いるいらないこーなー」は、両者のだましあいのような論文の応酬になる。よって、この連載はもともと無理無理なのだ。よって、消滅する予定である。ようするに、ボクは疲れるのである。土井論文を掲載できたことは、本研究所にとって、この上ない意義あることだったのだ。以上、報告おわりっ!フンッ!
学校において時間は2つの使われ方がされている。ひとつは、あらかじめ内容を決められて制限された時間。もうひとつは、自分で中身を自由に出来る時間だ。
前者では、チャイムという号令が使われる。たとえば、50分の体育の授業で走った後、10分の休憩後、次の数学の授業で50分間方程式に取り組む。あるいは、20分で昼食を平らげ、休み時間へ突入。6時30分には、部活動を終えて完全下校。といったものだ。
後者は、学校では限定的なもので、チャイムによって細かく時間を区切らずに、自分たちで自由に何かやれるようにするという形をとる。今流行りの総合学習などは、こういった使い方も提案されている。
しかし本当の「自由」時間は、学校の外にある。もちろん、学校の塀の外も最近は、塾や、お稽古、テレビゲームのプレイタイム、コンビニでのたむろ時間など、学校化?されていることが多いのだが。
学校では、後者のやり方を実践し、それが成功すれば、自由闊達、先進的な学校というレッテルがはられる。そのときの学校のウリは、「チャイムはいらない」というになる。
しかし、少なくとも私が経験した学校の実状からすると、どうもチャイムなしでも大丈夫というような授業形態をイメージできないのだ。だいたい、チャイムすら守らん手を焼く生徒が多い。むしろチャイム着席をやろうと、遅れてきた生徒を注意するとここぞとばかり、カラんでくる。注意すれば胸グラのつかみ合いになるし、彼らを放っておくと、「オレらーを無視しているオマエに何もいわれる筋合いはない」とますます言うことを聞かなくなる。チャイムをわざと守らないことで、教師との対立点をつくり、それをかるーく楽しんでいるといったところだろうか。
もちろん、これを「一部の生徒に見られるツッパリ行為」といえばそうかもしれないが、これがけっこう他の生徒にも広まる。「あいつらが、勝手にやっていて、何でオレらーばかり注意するのか」といわれ言葉に詰まることも日常茶飯事。まあ生活指導だけで学校が回っていくわけではないが、彼らにに振り回され、授業が成立しなくなるということがよくある。 たいていクラスがパンクしたとき、最初にやることは、「チャイムがなったら、教室に戻る。授業中は勝手に外を出歩かない」ということを定着させることからだ。もちろんこの時、チャイムの存在は必須である。チャイムの音が聞こえたら「さあ、教室へいかにゃ」という態度を示せ!が一番、彼らにはわかりやすいようだ。
私のそんな経験からすると、「時間厳守」の習慣は、学校における日常的必要不可なチャイムを、きちんと守れ!というトレーニングによって身に付くことだと思う。多くの悪ガキはすでに「幼稚園の頃から時間を守らんかった」と言っている。もちろんきちんと時間を守る生徒が多数派ではあっても、ちょっとしたこちらの油断で、時間厳守の鉄則はもろくもくずれさる。
だから小中学校ぐらいまでは、「時間厳守」の習慣を「チャイム号令」で叩き込まれるのがいい。もちろんこうした時間のしつけを学校に期待している保護者が多数いることが条件ではあるが。
ノーチャイムのような実践は、よほど一般的な「しつけ」の行き届いた教育熱心な生徒には有効だろう。あるいは、学習に前向きの反応を示す生徒にも有効かもしれない。さらに、この「しつけ」は、親や教員の高度?な教育技術が求められる。世の中から時間・時刻というある意味での「制限」はなくならないのだから、「時間厳守」を自ら自主的に肌身感覚として身に付けさせることは柔なことだと思う。
チャイムをなくすということは時間を自由に操作できるということではない。せいぜい、拘束時間の幅を今までの一般的な授業単位時間の50分間より長くするか、あるいは、短いユニットにして、それぞれに小さな到達目標を設定し配置して、授業のレールに乗せた生徒を「追いかけて」いくかでしかない。どちらにせよチャイムによる時間厳守が、暗黙の了解になっただけである。
実は、ノーチャイムは私も経験があるが、学校の生徒に対する時間管理を取り除いたという開放的実感を私はもてない。つまり、いくらノーチャイムにしても、「学校は生徒の時間を管理する」「生徒の時間を管理するのが学校」という学校そのものの本質的な役割存在から、抜け出せないのだ。
私からすると「チャイムのない学校」は、生徒の育っている生活基盤がもたらす生活習慣の時間に対する態度の質と、ハイソな教育条件を可能ならしめるその地域性を感じる。おそらく多数派に属するであろう、生活の水準が中くらいか、それ以下の学校は「まずはチャイム着席から」ということになるまいか。
私は学校に対し明るい夢を描くことに、いささか疲れを感じている。まあ、悪ガキに「おっ おまえ、チャイム守れたな」といって「すごいだろう」とガキが答える。そんなレベルの会話を毎日やって、どっかにふっ飛んでいかんように引き止めているのだから、しょうがないのだ。
「時間厳守」の習慣を「チャイム」でたっぷり叩き込まれる。そんな学校のトレーニングを通過して、そこから、本当の時間管理を突き破る。そして社会ではこの両者のやり方をうまく使い分ける。そっちのほうがいいんじゃないかと。つまりはこの考えは、学校のきらきらした教育的美談を過小評価した、夢も希望もない考え方になるのだが。 時間管理の自主性を学校で身につけるなんてねぇ。それは学校の外で、社会の現実で身につけたほうがましのような気がするのですが。授業のチャイムがなって「うおぅー」とほえながら教室を出ていく悪ガキらの方が、なぜか学校らしくて、健康的のようなきがするのですが。違っとりますかこの考え方。
4、「おは」スタッフによる 校正提案に基づくほぼ決定稿 注、下線は入れ替え書き直しをしたところ
「時間厳守」の習慣を「チャイム号令」でたっぷり叩き込まれるがいい
学校において時間は2つの使われ方がされている。ひとつは、あらかじめ内容を決められて制限された時間。もうひとつは、自分で中身を自由に出来る時間だ。
前者では、チャイムという号令が使われる。たとえば、50分の体育の授業で走った後、10分の休憩後、次の数学の授業で50分間方程式に取り組む。あるいは、20分で昼食を平らげ、休み時間へ突入。6時30分には、部活動を終え
て完全下校。といったものだ。
後者は、学校では限定的なもので、チャイムによって細かく時間を区切らずに、自分たちで自由に何かやれるようにするという形をとる。今流行りの総合学習などは、こういった使い方も提案されている。
学校では、後者のやり方を実践し、それが成功すれば、自由闊達、先進的な学校と呼ばれ、チャイムという「音」の号令はいらないということになる。 しかし、少なくとも私が経験した学校の実状からすると、どうもチャイムなしでも大丈夫とは思えないのだ。だいたい、チャイムすら守らん手を焼く生徒が多い。チャイム着席をやらせようと、遅れてきた生徒を注意するとここぞとばかり、カラんでくる。注意すれば胸グラのつかみ合いになるし、彼らを放っておくと、「オレらーを無視しているオマエに何もいわれる筋合いはない」とますます言うことを聞かなくなる。チャイムをわざと守らないことで、教師との対立点をつくり、それをかるーく楽しんでいるといったところだろうか。 もちろん、これを「一部の生徒に見られるツッパリ行為」といえばそうかもしれないが、これがけっこう他の生徒にも広まる。「あいつらが、勝手にやっていて、何でオレらーばかり注意するのか」といわれ言葉に詰まることも日常茶飯事。まあ生活指導だけで学校が回っていくわけではないが、彼らに振り回され、授業が成立しなくなるということがよくある。
また、クラスがパンクしたとき、たいてい最初にやることは、「チャイムが鳴ったら、教室に戻る。授業中は勝手に外を出歩かない」ということを定着させることだ。もちろんこの時、チャイムの存在は必須である。チャイムの音が聞こえたら「さあ、教室へいかにゃ」という態度を示せ!が一番、彼らにはわかりやすい指導だからだ。
私のそんな経験からすると、「時間厳守」の習慣は、学校において日常的必要不可なチャイムを、きちんと守れ!というトレーニングによって身に付くことだと思う。多くの悪ガキはすでに「幼稚園の頃から時間を守らんかった」と言っている。もちろんきちんと時間を守る生徒が多数派ではあっても、ちょっとしたこちらの油断で、「時間厳守」の鉄則はもろくもくずれさる。
ノーチャイムのような実践は、「良い子しつけ」の行き届いた勉強熱心な生徒には有効だろう。あるいは、学習に前向きの反応を示す生徒にも有効かもしれない。しかしながら、チャイムをなくすということは時間を自由に操作できるということではない。せいぜい、拘束時間の幅を今までの一般的な授業単位時間の50分間より長くするか、あるいは、短いユニットにして、それぞれに小さな到達目標を設定し配置して、授業のレールに乗せた生徒を「追いかけて」いくかでしかない。チャイムが鳴らないだけで、「時間厳守」はやはり、暗黙の了解である。ノーチャイムは「時間厳守」をむしろ自らに肌身感覚として身に付けさせることが隠れたる真の目的になろう。
実は、ノーチャイムは私も経験があるが、学校の生徒に対する時間管理を取り除いたという開放的実感を私はもてない。つまり、いくらノーチャイムにしても、生徒の時間を管理することで学校の教育プログラムをスムーズに機能させるという「経済策」から、抜け出せないのだ。
私は学校に対し明るい夢を描くことに、いささか疲れを感じている。まあ、悪ガキに「おっ おまえ、チャイム守れたな」といって「すごいだろう」とガキが答える。そんなレベルの会話を毎日やって、どっかにふっ飛んでいかんように引き止めているのだから、しょうがないのだが。
世の中から時間・時刻というある意味での「制限」はなくならないのだから小中学校ぐらいまでは、「時間厳守」の習慣を「チャイム号令」で叩き込まれるのがいい。
そんな学校のトレーニングを通過して、「本当の自由時間は学校の外でこそ創ることが出来るのだ」ということを思い知るわけだ。そこから、今度は社会に潜む学校化された時間管理(例えば、学校の時間割を雛型として作り出された労働時間管理とか生産の経済策といったもの)をまずは突き破る。ここでいう「突き破る」とは他者(匿名性の強い象徴権力とでもいえる)によって操られ、規制されている時間と本当の自分のための時間の違いを心性のレベルで感じ取れるということだ。
「時間管理の自主性を学校で身につける」なんてねぇ。それは学校の外で、社会の現実で身につけたほうがましのような気がするのですが。授業のチャイムがなって「うおぅー」とほえながら教室を出ていく悪ガキらの方が、なぜか学校らしくて、健康的のような気がするのですが。違っとりますかこの考え方。
部活
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ジャパンマシニストには、岡崎研究員を仲介に、その雑誌「ちいさい おおきい」に部活に関する論文を投稿することになった。この論文は1997年16号に「体育特集」が組まれ、そのテーマの中のひとつとして、中学校の「部活」に関して書いたのだが、やはり、内容は、ひとくせ、ふたくせありのものになってしまった。
「教育サービスとしての部活はもはや、かつてのように教師によっては受けられなくなる」ということを述べたものである。21世紀の今、この状況はかなり進み加速度的に部活の廃部が進んでいる。以下、「ちお」16号で発表された「部活」の論文を載せる。
1年生は募集しません。
新学期早々、私の知人の勤務する中学校は、生徒向け「部活入部説明会」で揺れたそうだ。なぜならそこの部活担当の教師が「バスケ、テニス、バレーの各部が1年生の新入部員を募集しない」と発表したからだ。
中学校ではたいていこれらの部はメジャーな存在で、さほど強くなくても、1部の部員をそれなりに確保し活動しているものだ。それが、1年生を募集しないというのだから、大変である。
はたして、1部のP(保護者の略)がいろいろと動き始めた。
ところで、彼の勤めるこの学校は、いわば「お坊ちゃん」学校である。1クラスの中に医者、教員、経営者、有名銀行員などの子弟がいる。親の教育程度が高いといわれている地域だ。当然教育にも熱心で、学校に対する関心も高く学校のやり方に対し、クレームもよく出るそうだ。
この学校の生徒の部活参加率は高い。8割ぐらいはどこかの部に所属している。部活活動状況はといえば、1部熱心に行っている部もあるが、さほど強いというわけではない。まあ、運動部系の「名門」といわれる学校ではない。
そんな学校で「1年生を3つの部で募集しない」と発表したわけだ。
募集しない理由
なぜ1年生を募集しないのか。その理由は顧問のなり手の不足である。生徒数の減少や教師定員増加の凍結という今の教育行政では新卒の先生は増えない。教師はますます平均年齢を高くしている。
それゆえ1年後、2年後顧問が転任をすると、その後を引き継ぐ顧問はほとんどあてにならない。廃部になる可能性が高いということが予想される。
一応、部活は1年単位で形式上、入部と退部がなされるが、ほとんどの部員は3年間同じ部を続ける。やっとレギュラーとして試合に出れるようになったとき、顧問がつかず廃部になるというのはよくないのだろうということで新1年生を募集しなかったわけだ。
もちろん、こうしたやり方に対して彼の学校では教師間でいろいろな議論をした。結局、各部を2人以上の副顧問制とし顧問の負担を減らすという形で部活を持たない教師に参加を呼びかけるということになった。が、しかし部活顧問としてバックアップする教師は新たには出てこなかった。
ご存じの通り、部活は課外活動であり、教育活動の一環とみなされ、となればそれなりの責任は負わされるが、いわゆる勤務とはみなされない。教師の「好意」によるボランティア活動だ。仕事の後に2時間、試合のたびに日曜日はつぶれ、ゴールデンウイークも試合が入って、10年間1度も家族旅行ができない人もいる。夏休みのほとんど休めない。
けが、けんか、いじめなどは、課外活動といえども常に発生する。いわば生活指導の最前線にもなる。まあ好きでなければできません。
親の反発
1年生新入部員を募集しない方針をとった学校に対して一部の保護者から抗議行動が起こった。
これは、かなりしつこかったため、管理職の面々は打開策を考えた。それは部活顧問をやってくれる外部講師を頼むことだ。
ところがこれには部活顧問が猛反対をした。ただでさえ活動場所がないのに、例えばバスケ第二クラブを発足することになるわけだから、穏やかではない(つまり1年生第二クラブがさらに体育館使用日の3回のうち1回を独占するというのことが起きる)。それに上級生の風当たりも強いであろうことは予想される。親と教師の間に挟まってクレーム対策に追われる管理職は頭を抱えているとのことだ。
ところで運動系部活に対するクレームといえば、今まで私が述べてきたようなことというよりも、むしろやり過ぎによって起こるものの方が一般的であった。つまり体罰とか、朝練、部活づけによる子供のゆとりの不足。「顧問の先生よやりすぎるな」というのが部活問題の各紙紙面をにぎわかす内容ではなかったか。それに答える形で教育委員会などは試合数を減らすように指導しているし、委員会主催の大会をなくし協会といったスポーツ系の任意団体へとそのイニシアチブを移行している。学校主体の部活から地域のスポーツ団体へ活動母体を移行しているのが今の部活の現状だ。ある意味で知人の学校で起こっている問題はこの流れに逆行しているというよう。
すなわち、部活という形で学校ではもう放課後に子供の面倒は見ない。家庭でそれぞれの地域のスポーツ団体へ子供をゆだねなさいということだ。いわば部活という学校による「教育サービス」はもう行わないという流れだ。
しかし親の反発はよくわかる。学校は子供のためになるのなら、何でもかんでもやってくれるし、クレームを付ければそれなりに今の時代、敏感に反応してくると考えていたのだが、「それは家庭でやってください」と部活に関しては言われているのである。
中学生は結構親でも手に生えないところがあるから家庭でと言われても、面倒なことになった、というのが本音かもしれない。というわけで学校という場で行われる部活に対する親の思い入れは結構深かそうである。
先に紹介した学校の親の中には「このような状況で部活の顧問に名乗りをあげないなんて聖職者として失格だ」とまでいい放っている人もいるそうだが、どうやら泥沼にはまってゆく様相を呈しているようだ。
やはり健康幻想か?
スポーツ系部活がなくなっていくという現状とそれに対する親の反応を述べてみたが、ここで少し視点を変えて、親のわが子へ向けられるまなざしという点から部活を考えてみたい。
すなわち、部活や子供を入れようという親の心性について考えてみたいのだ。
親が子に願うこと、それは健康で元気であること。しかし、それが確認できるのはよそさまの子供との比較によってである。
幼児を母親は公園に連れていく。そこには他の子供たちがいる。母親の目はこの他の子供たちと自分の子との体力面、感性面の比較に向かうだろう。母親は子供にそこで語りかける。「より元気により活発に、もっとハキハキと」と。
運動に関する「健康幻想」はこうした形で幼いころから子供の感性に刷り込まれる。
比較の場は学校へと続く。部活がこの「健康幻想」の演出舞台となるのは当然である。
この舞台、華やかなりしころは、顧問の行き過ぎたやり方が批判のやり玉にあがっていた。そして今、部活は学校の舞台から徐々に消え去ろうとしている。部活動をやる顧問がいなくなっている。いや「やってもいいかなと」思っている教師が減っていると言い換えることもできよう。
教師サイドに立つならば、そういう気持ちになるゆとりがない、ということになる。ほかならぬ人相手の仕事の現在の難しさの反映なのか。
「健康幻想」を演出する部活は今やかなり複雑な問題をはらみ初めてように思える。「全く体育会系の人たちのやることというのは困ったもんだ」といった従来よりある批判視点では先の見えてこない事態になりつつあるといえよう。部活という「健康幻想」を満たす教育サービスは学校では「稀少化」してくる。
さあ、どうしますか。
コメント
本論分は、岡崎研究員より依頼のあったもので、かつて日本評論社の「心の科学」に論文を投稿した岡崎研究員の内容に着目した、心の科学・編集部
遠藤俊夫氏を中心に岡崎氏、赤田氏によって編纂された論文集である。
2002年より実施されている教育改革に関する、各種の記事や論文はたくさん出たが、今ひとつその実態の核を捉えた内容にはなっていない。私が知る限りこの教育改革に関しては、今回出版された「やさしい教師学入門」 こころの科学(日本評論社)が史上初、かなり挑発的で衝迫力を内在したボリュームある内容を備えて登場したものであると考える。
題名からすると教師対象に限定されるようにも見られるが、むしろ保護者や教育委員会などの教育官僚の人々の方がより興味をもたれる内容になっている。もともと教育改革は現場に多くの混乱をもたらせているが、文部科学官僚は、都合の悪い部分は、現場の判断に押し付け、裏ではかなり強硬に教育統制を推し進めている。今省庁改変が進められている中、教育官僚も既得権限を保持するためにかなり躍起になって、裏工作を進めているようだ。教育関係はもともと金になるものではないが逆にそれこそが、今後やりようによっては、大きな収奪・たかりの類の可能性を秘めてくると考えているのかもしれない。
かつて、自民党野中議員が幹事長のとき、「教職員を民営化すればよい」という発言をしていたが、このインパクトはかなり教育官僚の中には響いているのではないか。それこそ2年先、5年先には公教育も民営化されあるいは、各自治体で独自に運営されて行く可能性を敏感に察知して、今のうちに教育官僚の権限を確立しておこうと躍起になっているのではないか。すでに今でも、地域によっては、40人学級を崩し弾力的に少人数学級を推し進めているところも多い。もちろん文部科学省サイドの規制緩和に基づく行動なのだが、中央の支配力が地域に対して弱まっていく流れにつながることも事実だ。教育があからさまに政治化していく時代が到来したともいえるかもしれない。もちろん今までも教育は政治そのものであったが、民営化という流れの中で、あからさまの目に見える形で政治的工作が始まったと考えておく方がよいであろう。
今回私が担当した「お受験と高校受験」は教育というひとつの文化資本を保護者の立場からどのように捉えそれを獲得すべく、考え行動しているかを論じた。その中でキイ概念となったのは、「違い」である。これは、社会学で言うところの「ディスタンクシオン」 〜ブリュデューの概念をたたき台としている。もともとの論文は、「ディスタンクシオン」T ピエール・ブルデュー(新評論)によるが、この論文は、その他に、プラチック、プラクティス、ハビトスなどの重要なキイ概念がある。とりわけ教育に関しては「プラチック」と「プラクティス」をしっかり峻別しておきたい。
以下に掲載する論文は、初稿であり、文体の中でうまくつながっていない箇所も多々あるが、なかなか文章に表しにくい部分を思うままに文章化したものであるため、ここに残しておきたいと思った。実際に掲載されたものは、編集者の意向に従い、本文で言うところの5行分を切り詰め、4ページに納まるよう編纂した。
「お受験」と高校受験(検)
10人中3人。これは私の所属する町内から、学区の公立中学へ入学する割合だ。残りの7人は「お受験」をして、私学や国立付属の中学へ進む。通常この数字は逆の方が自然であろう。しかし、わが町内のお受験熱はかなりヒートアップしておりこの不況下にあっても一向に醒める兆しはない。なぜこうも「お受験」に熱心なのだろうか?
●なぜ「お受験」か?
その理由はいくつかある。まず第1に挙げられるのが、この地域の特性だ。この地域は大都市圏から少し離れた郊外型の住宅地である。その大半が一戸建てで区画も広い。また、都会へのアクセスも容易で、駅周辺は巨大高級マンションが林立する。しかも住民たちは、都市のアパートや賃貸マンションから一戸建てや高級マンションに移り住んできた「都会人型郊外人」である。いわばこの不況にあっては「勝ち組み」に属する人が多い。事実この地域に隣接する所にあの巨大自動車工場「トヨタ」がある。そんなことから都会から郊外への流れは、大都市を真ん中に切って、「トヨタ」がある東へ人口の流出が続いている。それゆえこの地域に生活する経済的に安定したいわば「都会人型郊外人」は、教育に多くの資本が投入できるため、有名私学が集中する都会に子どもを進学させるのだ。
第2に、地元中学がひとつしかなく、またその評判も芳しくない。しかも隣接する公立高校も、過去にいわゆる「管理主義教育」の先進校であったため受験制度の変更に伴い敬遠されて、結局、成績では中の上以上の生徒が都会の高校へと流れてしまう。つまり、成績がよく経済的にも余裕のある都会人型郊外人の子供は、有名大学進学が望めない地元高校よりは都会の有名進学高校を希望するのだ。その前段として、有名私学や国立付属の中学への「お受験」がヒートアップするのだ。
第3には、同居世代が多いという点も見逃せない。第1世代も高学歴・高収入の人たちが多いので、それらの影響は絶大で、第2世代も、それに順ずるような考えで自分の子どもを「お受験」させる。
第4にこの旺盛な「お受験」ニーズを開拓するために進学塾が多数進出してきた。その進出ぶりはすさましく、一本のマンションが建つごとに、ひとつの塾ができるほどである。しかも進学塾に限らず、英語塾や英才教育関連の塾、美術、ピアノ、武道、大手進学塾から独立した私塾など、教育産業が一挙に押し寄せてきた。
通常「お受験」のウオームアップは小学4年生から始まるため、「お受験」を志向しない人たちも、学力差をつけられまいと必死になる。
以上4っの理由を述べてみたがこれらに通底するものは何なのか?
私は、この地域の母親の噂話や学校での保護者の立場からの意見、第1世代の人たちの言説などに関して、ときに耳を傾けあるいは情報収集を重ねてこの疑問を考えてみた。実のところこのようなことは、従来の統計学的な調査手法やアンケートなどによる意識調査では推し量る事のできないものであると考える。
●「違い」
私はこの疑問を解くキイ概念としてこの地域の母親や第1世代の人たちがよく口にする「○○さんのところは違うから・・」「うちは○○さんたちとは違うので・・」という「違い」をあげたい。この違いは文字どおり、学歴や経済的差異、不動産の規模や自家用車のグレード、さらには飼っている犬の質の違いまでも含む。これは近所に住まう同世代の子どもの「違い」にとどまらず、例えば駅周辺のマンション族と一戸建ての人々との違いや、地付きの人と都会人型郊外人との違い、トヨタ系、ミツビシ系、公務員、大学・高校・中学の教師ら所属グループの違いなども複合的に重なっている「違い」だ。
この「違い」は可視的にもシンボリックにも付けられるものだ。この違いは常に蓄積され、その営みは、第1世代から営々と第3世代に至るまで継続されてきたものである。そしてこの違いは「より上等な違い」へと質的に変化していく。それはまさに大河を境に川のあっち側とこっち側というくらいに感覚的にも違ってくる。言い換えれば、川のこっち側に根を張り熟していく甘い果実を実らす「ひと味違う文化」という名の樹木があり、それは首尾よく土壌のよいこちら側に根を張るのみならず、常に甘い果実を実らすために、肥やしを与え、害虫を駆除し、剪定を行って何世代も繁栄させるメンテが必要不可欠なものとなる。
この「違い」を維持し不断に蓄積していくことが、この地域の人々の最大にして究極の関心事、生活目標となっている。また地域のつながりとしてのご近所付き合いの中でもこの「違い」に対する執着は強くそれが時に「嫉妬」という形で垣間見せることもある。
例をあげてみよう。教育公務員であるAは、この不景気にあっても比較的安定して、この「違い」の蓄積に専念することができる。妻も教員の資格と再就職の伝手があるため比較的容易に、パート程度の教職を得ることができた。しかし、パートといえども教員の自給は高い。社会的地位も一般専業主婦とは違う。この違いが生じた段階で、今まで付き合っていた近所の専業主婦が、「嫉妬」をするのだ。それは社会に教員という文化的地位の形で参加できる人への嫉妬だ。
さらに比較的裕福な地域とはいえ、この不況下でサラリーマンは生活費を切り詰めることが余儀なくされる。しかし、違いの蓄積は不断に行わなければならないので、例えば子どもの教育に関しては従来どおり資本が投下される。その埋め合わせとして主婦がスーパーマーケットなどのパートに出るわけだ。ここに大きなライフスタイルの違いが出てくる。Aの妻の就職はその動機が、生きがいやプチ贅沢のためにあり、他方はお受験資金捻出のためのパートは同時に生存生活のためにもなされる。これは、隔世の違いであり、生存生活のために働かざるを得ない主婦からすると、教師再デビューなどは許されざる嫉妬の対象となるのだ。違いを蓄積するための手段においても違いが出てくる。
それゆえ、違いが決定的に可視的となる「お受験」ではAよりもひとつ上のグレードが追い求められるのだ。ライフスタイルの違いは「お受験」の成功で埋め合わされるというわけだ。
私はこのような形で入手できる「違い」を他者とは「ひと味違う文化」と言い換えておくがこれを追い求める営みは、この地域においては「みんながお受験」という社会現象で顕在化した。しかし他方で、このような「学歴序列化信仰」に留まらずさらに「ひと味違う上等の文化」を追い求める営みもある。それは例えば農村回帰といった、エコロジー的な生活様式の確立や家族全員が関わる市民運動やボランティア活動などの形をとる場合もある。確かに、私のすむ地域ではリタイアした方のボランティア活動や無農薬家庭菜園が盛んだ。
●「高校受験(検)」
10人中7人が「お受験」に向かうのは、この地域が都市型郊外人で構成されながら、それを受け入れる学校が個性よりは集団を重視する「管理主義教育」先進校であったというミスマッチによって、「違い」=「個性」を追い求めるこれらの人々から敬遠された故の結果でもある。そしてこの「お受験」という名の「ひと味違う文化」の追求はその舞台をワンステップ上げていわゆる「高校受験」へと駒を進めていく。
ひと味違う文化が「お受験」なら、大多数がはじめて、その「違い」を顕在化させるのが「高校受験」である。お受験の「違い」は、大河でいうところの土壌のよい側の土地の搾取でありそこでの苗植えであった。しかし「高校受験」はこの大きな大河の右岸と左岸に橋を渡し、よい土壌へ移動するチャンスを与える教育サービスシステムだ。
現在に至るも強力な公立高校神話が生き続けるこの地域では、まずは高校というブランドは有名伝統公立高校→一部有名私学を除く私学校→底辺校(定員割れ公立校および底辺私学)→専門学校(高校卒業資格が手に入る技術提携校)とその構成人数は正規分布をして住み分けられている。都市部などでは、公立中学校期間を「違いの顕在化」のモラトリアムとし、高校受験によって一気に他者とは「ひと味違う文化」を獲得するために教育資本投下をヒートアップさせる。そのためにとりわけ、よい土壌とは逆サイドにいた人たち(例えば都市の西側の人々)はこの教育サービスが用意した橋に猛烈なアクセスを試みるのだ。しかしこの橋は、決して容易に渡らせてくれるものではない。よい土壌を用意した高校サイドが厳しいパスチェックを行うからだ。
そのパスチェックには内申書と学力受験という方法が用いられる。内申書は中学3年生の評定合計であり、これらは正規分布に基づく相対評価という「違い認識システム」によって数量化されたものだ。中学3年間のよりよい成績獲得努力はこの「違い認識システム」によって「より上等な違い」を追い求める営みともいえよう。諸々の事情で「お受験」を断念した人々はこれがそのリベレンジのウオームアップということになる。
ところで一部の国立付属校を除き「お受験」ではこの評定はさほど重要視されなかった。むしろ当日の学力試験が決定的要因となっていた。しかし、高校受験ではこの評定が半分を占める。私学に至っては単願ならば、学力試験はパスすることもできるのだ。
3年生の2学期から進学先のふるいわけが事前に行われるが、本人の希望で有名公立受験のチャンスは保障される(複合選抜制度)。「違い」のひと味違うシフトがここで可能となる。すなわち「より上等な違い」すなわち有名公立高校受験のチャンスを獲得できるのだ。そのため、公立中学に進んだ生徒は塾などの教育サポートシステムに関わりながら「違い」獲得への道を突き進む。
しかし、彼らは「お受験」グループほど画一化された動きをするわけではない。つまり「違い」の追及に対するエネルギーの使い方がまちまちなのだ。「まちまちな側にいる」というのが「お受験」グループとの違いだ。しかし「より上等な違い」を追い求める人々にとっては、塾が持つサポートのノウハウと一定程度の能力や禁欲的自己抑制があれば、教育システムが用意した対岸へ向かう橋を渡ることができる。そして、進学先によってはばったり「お受験」グループと遭遇することもあろう。しかし、その学校においては、中学校からの生徒と高校受験で入ってきた生徒とは明らかな「違い」がある。ある高校では「純金生徒」と「その他のメッキ生徒」というような言説で使い分けている。しかし次のステップである大学受験においてこの違いは逆転することもある。私学高校によっては、付属大学へそのままエレベーター方式で進学することが「負け組」になるケースもあるのだ。「高校までは上等、大学は普通」といったケースがこれに当てはまる。よってこのような高校の「お受験グループ」は、6年計画で大学受験のウオームアップを行う。それが高校受験入学者との「違い」にもなる。週5日制になってから、この違いをセールスポイントとする私学も多い。つまり土曜日も通学させ、大学受験に向け長期戦略を用意しているというわけだ。
●絶対評価への移行
今年より絶対評価が、小中学校で施行された。これは国が進める教育改革の一環として評価制度を改めようというものだ。この改革には明らかにエリート育成の意図が見出される。なぜならば相対評価は「違い」を顕在化させようという手段が、評定合計という可視的な統一基準によって収斂されており、要はその合計さえあげれば「違い」がはっきり確認できたし、またそのチャンスは誰にも開かれていた。しかし絶対評価は学校での同一基準に基づく「違い」追及というよりも、むしろそれぞれの家庭での「知識・教養の獲得」への営みのエネルギー配分を多く取ることができる人々にとって圧倒的に有利な評価システムだ。このようなことに多くのエネルギーを投入できる人というのはすでに「ひと味違う上等文化」を獲得している人が多い。今現在のデフレスパイラル不況下にある社会では、明らかに生存生活にのみそのエネルギーの大半を消費しなければならない層と「ひと味違う上等文化」にも余剰のエネルギーを注ぐことのできる層との2極分化が進んでいる。また総合学習の導入や教材内容の削減は、教育に多くの資本を投下できる人々にとってより有利な状況になってくるのは明らかだ。
絶対評価は確かに、それぞれの個に応じた評価が可能になるが、それは学校の中だけで獲得された知識に対してのみ評価されているわけではない。むしろ、その子どもの学習に対するバックボーン、例えば年少期からの広い興味関心への継続的刺激とか目的達成に向けての集中力、禁欲的自己抑制など学校外の「ひと味違う上等文化」を保有している家庭に依存することが多いのだ。そういう点からすると、甘い果実のなる樹木を育てそれを手に入れることができるのは、「違い」を日々怠らず蓄積し続け他者との違いの差を縮めることなく「ひと味違う文化オプション」を追い求める人々にとってこそ絶対的優位にその果実を手に入れることができるのである。
岡崎研究員が編集人を担当している「おは」ジャパマニストより、以下の部活に関する悩み相談に答える企画に参加して執筆したのでここに、記しておく。
質問者は、ある年齢に達して、部活にやりがいをなくしてしまったが、ダラダラ続けている状態をどうしたらよいか?というものであった。
部活は楽しんでやるものだ。「むなしい」と思うようになったらすぐにやめることを勧める。しかし「今いる部員を切り捨てるわけにはいかない」というのなら、3年越しの廃部計画を立てよう。まあその間に気が変わることもある。ひょっとすると代わりの顧問が現れるかもしれない。まぁ、あなたの場合ゆっくりやめるのがよいかもしれない。
さてその手順であるが・・
@ 新入部員は募らない。
A 部員には角界の引退会見のごとく次のように宣言する。「気力、体力ともに失われつつある。3年後にはまったくやる気も、情熱もなくなっているので1年生の諸君らと共に3年後に部活顧問を卒業する」
B 親には「現部員の面倒は最後まで見る。しかし以後は廃部する。」と伝える。理由は生徒に宣言したのと同じでよい。「教師としてそんなことで良いのか?」とか「小学生の妹が入部を楽しみにしている」といった意見が出たら。「やる気を失った顧問の部活に入るのは子供が不幸です」言う。
C 他教師や管理職がブーブー言ったら、「なら代わりにアンタやれ」と言い放とう。本来学校の部活動と言うのは、人にやれと命令されてやるのではなく、やろうと考えた人が、やるものだ。
D 3年後に部活をやめたことで浮いた時間の過ごし方を考えよう。実はこれが一番楽しいことなのだ。あなたはおそらく、ほかにやりたいことがあるという理由で部活を続けることを迷っているわけではないので、何をするかを考えておくことは必要かもしれない。3年かけて「楽しみを探す楽しみ」を持つのだ。
E 昨今、自宅研修が取りづらくなったとはいえ、部活顧問を辞めると、夏・冬・春の休みに肉体的にも精神的にもフリーになれる。また、土日ものんびりモーニングコーヒーを飲むことができる。試合の勝ち負けにこだわったり、朝練のために5時起きなどの早起きをしなくてもよくなる。こりゃエエわ
どうしても顧問引退のフンギリがつかないのなら、不幸せな顧問の下で不幸な子供たちとダラダラ体裁だけ繕った部活を続けることになる。まるで今の教育改革みたいだなぁ。
「ち・お」増刊号の原稿依頼が来た。当初は、生活指導・進路指導の2点について現状と将来のあるべき姿などを視点に書いて欲しいとのことであった。400字7枚程度で収めよとのことであったが、これはかなり難しい。まあとりあえず自分なりに草稿を書いてみようということで取り掛かった。まずは、読者を意識せず理論的に書いてみた。以下にその草稿を載せてみる。
題名は「ザ・クラッシュ! 学校文化」である。
ザ・クラッシュ! 学校文化
学校は特有な文化を生産・保持してきた。それは時間・空間・身体活動を管理・規制し、学校特有の施術=作法で「社会化」を育み、卒業後の高度産業社会に適応できる勤勉な生産者であり気前の良い消費者を作り上げていく。そのような権力装置としての機能を果たしてきたのだ。
そして校務分掌上は生活指導や進路指導は、まさにこの役割を果たすコアとなる仕事だ。
しかし、今この特有な学校の持つ文化はなだらかにクラッシュ(崩壊)しつつある。もともと学校は背骨を芯に頂く脊椎動物型構造ではなく、周りを硬質のシェルターで覆われた無脊椎型甲殻系の外殻構造を有しているため、表向きにはその崩壊はなかなか見えてこない。古くなった角質を脱皮させようと上からの教育改革が推し進められたが、如何せん内側に新しい甲殻が形成されていないため、クラッシュした学校文化の文化廃棄物が垂れ流されるに及ぶ始末である。
わたしが、学校文化が崩壊しつつあると言及するのは特殊な状況を見て判断しているわけではない。多くの方も目にし、また各方面からの世相ウオッチ系書物も指摘しているものからだ。
例えば、地下鉄などの公共の場での女子高生の行為。茶髪・厚化粧・パンチラミニスカ・踵踏み革靴・コテコテ着色携帯・ルーズソックスの女子高生が、7年がけのシートを3人で占拠し、おもむろにぶよぶよのふと足を放り出してルーズソックスを脱ぎ始めた。そして伸ばせば1メートルはありそうなそのアカで黒くシミのついたルーズソックスをカバンに掘り込んだ。車両内は3日ほど放置した牛乳の腐った臭いと安物の香水や化粧が混ざった悪臭が充満したわけであるが、彼女たちにはその匂いが感じられないようである。そしてルーズソックスの下からは、学校標準の白いソックスが現れた。私はショックを隠せない。ルーズソックスはまあ、流行である。異臭やパンチラ股広げの着席姿勢も無視できる。しかし、ルーズソックスを脱ぎ捨て標準靴下に替えるという行為を地下鉄車両などの公衆の面前で平然とやってのけるその感性にショックを受けたのだ。彼女らにはこうした、ばばっちくてセコイことはコソコソやる・・ぐらいの悪戯に対する在り様すらも意識に存在しないのだ。
同じく男子生徒においても、車両内床に座り込み、飴菓子類を貪り、そのかすやごみを放置する行為も類似のものであろう。昨今中身よりも外見を重視しそこに多くを消費するスタイルをとりながら、そのスタイルを不陳化させていくその感性。ところでこういうことをやる手合いに限って流行とかダサいとかに敏感?なのはジョークとしか思えないが。
どうやら学校文化はこんな形で崩壊しているのだ。標準の白い靴下に履き替えることで学校の規則に合わせていくその過程におけるごまかし、悪戯の在り様(作法)すら意識下に存在しない(確かにかつて規則破りはカウンターカルチャーとして認知されていた時代もあったが)このような生徒に学校の塀の中でどのような生徒指導がやりえるのか?
中学生にいたっても同様のことが言える。身近なところで、ケータイによる売春行為が発覚、逮捕・補導という事件が立て続けに3件起こった。しかし問題は、自身の売春行為ではなく、学校標準生活から連れ添ってアウトローした無二の親友を売春に引き込み脅しその上前をはねるという行為。補導されてからも、取調官に対しチクッタその親友に復讐すると公言してやまない思考パターン。彼女は生まれながらの犯罪者なのかというとそうではない。実に優秀な生徒であり、家も表向き上流、姉は有名お嬢様私学に通っているのだ。
学校と家庭がこの生徒を育ててしまったのか。もともとそういう素質があったのか。この生徒のいた学校は実に落ち着いた、最近では稀に見る他学区越境入学ナンバーワンの名声を誇る。
さらに、保護者の別居・離婚が加速度的に進行しているのも気になる。離婚は当人の問題であり学校がとやかく関わる筋合いのものではないが、その子どもの幾人かはこの問題を引きずって学校にやってくる。一般に母子家庭の安定度は高いが、反面子どもが耐え忍んでいる様がひしひしと感じられる。父子家庭はおおむね崩壊する。父側の子育てでは、子どもは耐え忍ぶよりも、深夜徘徊・家出などの形で崩壊するケースが多いのだ。
しかしこの離婚加速(たぶん不景気も連動している)という時代の流れは止まらない。
学校はこれらの子どもたちのシェルターとなりえるのか?この設問自体がおかしい?否、現実は否応なしにシェルターの役割を担わされている。担任は、夫婦間のドメステックバイオレンスや家庭内暴力の只中に巻き込まれてしまうのだ。親戚や地域などの横のつながりのない親は学校にやってくる(孤独で寂しい親が最近とみに増えている)。学校内にカウンセルシステムを導入したことがさらにこのことを加速させた。事実カウセリングを受ける保護者の割合は高い。
学校は地上げしユンボなどでその建物を叩き潰し平地にして有刺鉄線で囲わぬ限り、その外殻が消えてなくなることはない。そこに子どもが集まってくる限り、生活指導も進路指導も必要とされる。
もともと進路指導が「学習の目標の方向付け」なのではなく「学習に不断に取り組まなければならない」ということを恣意的に納得させる制度的サービスであるならば、生活指導はそれが毎日の「教育実践」の中で自主的であれ強制的であれ教育プログラムをこなしていくためのケアであり、さらには「ホスピタリティ」(注)の役割をも担うことになる。
ところで「ホスピタリティ」は元来サービスやケアを上回る高度に進んだ人間の肯定的関わりをイメージされるのであるが、学校の中にこのやり方が入り込むと、生活指導をするという行為が従来とは次元の異なる人間関係の根源的なところに取り付くことになる。サービスやケアはあくまでも他者との階級的関わりを持っていた。すなわち教師と子どもの階級的関係が明白に存在していたのだ。しかし、ホスピタリティ=生活指導へと発展的関係を作り上げると、強制力とか反発、ミス、やりすぎといった従来型の生活指導の負の部分が見えなくなり、生徒と教師のあからさまな緊張関係は消滅することもありえる。しかしながらこれが新しい教育の在り様を保証するというように明るく捉えることは私にはできない。
私は建設的で明るい未来を想定した教育実践を崇高に唱えることはできない。今の教育システムはかなり強固に保管される。しかし、変化は続くだろう。それは一握りのエリートにはバラ色の将来をそして大多数の大衆には暗くしんどい試練を与えるものであると。
注;ホスピタリティー〜(hospitality)
ホスピタリティの語源は、ラテン語のhospes(客人の保護者)であり、それから多種多様な言葉(hospital、hotelなど)に派生し、ホスピタリティとなった。
一般的にホスピタリティは「人を暖かく親切にもてなす心」という解釈がされるが、むしろもてなす側(ホスト)ともてなされる側(ゲスト)の関係は相互に対等であり、相互理解、相互信頼、相互扶助、相互発展の関係にあるといえる。そしてその相互関係に「心づけ」という新しい価値を加えることにより、お互い期待以上の結果に喜びや感動が生じて、反復効果、相乗効果が発生し、新たな共創的関係が発生する。
(http://www.pref.yamanashi.jp/shouko/vi/millet/millet.html)より引用。
もちろんこのまま、投稿するわけにはいかないので、この路線に沿って、内容を「生活指導」に絞って、具体的な事例を述べつつ、中学校の現状と展望を書いてみた。それが以下の論文である。
「中学校生活指導その限界と必要性」
20年ほど前、校内暴力が吹き荒れていたころ同じ中学校に就職した同僚が「何がどうなっているのかわけがわからんよ!」とため息混じりに語り始めた。彼の中学校で立て続けに売春行為が発覚して幾人かは補導、中には少年院に入所する事態にもなったのだ。この事件は報道機関にも大きく取り上げられ、全国にも流された。
事の発端は、ある女子中学生の教育相談から始まる。夏休み後の生活の乱れに、只ならぬ危険な雰囲気を感じ取った教師(同僚)が相談室にその生徒を缶詰にして6時間以上も粘って聞きだした。そうしたら本校の先輩から「売春を強要され挙句の果てに上前までピン撥ねされていやになっちゃう」との告白がなされたのだ。
携帯の出会い系サイトがその手段に使われていた。「携帯と言うのは人との関わりを大きく変えたが、倫理観すら退廃させているな」とは同僚の弁。早速、警察に被害届けを出させてその筋の専門家に処理を任せたが、そうなるとその後の情報や経緯はほとんど学校には入らなくなった。「人権問題」が絡むため、学校に対しても一切がオフレコとなったのだ。ただし家裁の書類や欠席理由などの報告のために生活指導主事には大まかな概要が内々に知らされた
ところで被害者は教育相談の折に、加害者のみならず売春をやっている他の生徒のことも話していた。当然それは警察にも流れたわけだが、被害届けを出さない限り事件にはならないとのこと。またそれらの生徒の親も事情聴取のため警察から呼び出しを受けていたが、このことも学校には知らされないことになっていた。しかし、学校はそれらの情報を掴んでいる。だが親を呼び出し確認することもできない。親は進路相談などの折にも一切この件について話さなかった。
また、被害者と加害者が同じ学校にいるということで、加害者が復帰した場合どのように対処するか学校ではかなり問題となった。当時、警察からの情報によると初犯ということで、学校復帰の可能性が高いとも告げられていた。自宅待機、別室指導、監視体制・・とは言えなぜその生徒にそのような指導をするのか他の生徒に知らすわけにはいかない。事件はあたかもないかのごとく対処するのだから。しかしかなりの生徒は例の生徒が欠席している理由を知っていることも確かだ。互いにわかっていながら話題には出せない状態が1ヶ月以上続いた。
ところでその期間、問題生徒がいないということで皮肉にも学校は至って平和で落ち着いた環境になっていたのだ。
結果的には加害者は少年院に入所ということになった。悪質であるということと「チクッタ被害者に復習してやる」と公言して憚らなかったため、やむ終えず入所となったらしい。教師は「ほっ」と胸をなでおろした。時期からしてもう出所は卒業後になる。厄介なことが一つ消滅したということで存分に進路指導に専念できる。
しかし、年の暮れになって新たな売春行為が発覚した。その生徒はすでに夏休みに売春をやっていた事を例の被害者の生徒の情報から学校は知っていた。買春した側が、社会的に知名度の高い被疑者であったため報道機関に大きく取り上げられた。さらにもう一件、同じく夏休みの売春仲間が補導された。年の瀬に他校の生徒とつるんでやったようで、その生徒の補導から発覚したのだ。この買春相手はさらに知名度の高い被疑者だったため報道にも熱が入っていたが、当然生徒サイドのことは報道管制がしかれていた。
「結局、あの生徒は夏休みに「売春は割の良い小遣い稼ぎ」ということで味をしめちゃったわけだな。それでほとぼりが冷めたころにまた商売を始めたということだな。」「しかし進路相談のときは高校へ行きたいということで髪も染め直し、服もほぼノーマルに戻して欠席がちではあったが授業もまじめに受けていた。何を考えているのやらさっぱりわからん」もちろん警察からも動機やそのときの動きなどまったく伝わってこない。それに新聞記者も取材に来ない。マスコミは学校名や生徒のプロフィールなど伏せて報道している。
その生徒は今のところ欠席中であるがいつ登校するかはっきりしない。そのときどう対処するかこれも決まらない。ただいえることは誰もが知っていてそれでいて何もなかったかのごとく学校生活を続けさせるということだ。
生活指導は、その生徒に再犯させないこと。他生徒が引き込まれないこと。他生徒のこの件についての「言論統制」をすること。さらに第4第5の事件発生がないことを神に祈るぐらいだ(学年集会というわけにもいかない)
復帰した生徒とひざを割って話し合うということになればそれはかなり生々しい内容となろう。聖職者的倫理観で説教しても言葉のお遊びになる。「子どもと深くふれあいその悩みや喜びを知ることにより密度の濃いコミュニケーションを図って指導助言をおこなう生活指導を目指す」ことが、最も必要な生徒に対して「核心に触れず、倫理的言説が飛び交う道徳的生活指導に終始する」ことになるわけだ。
ひょっとしたら、心を入れ替えさせ、まずもって自分を大切にするよう説き伏せて「この先生のおかげで私は立ち直れた」という指導をやり遂げる教師がいるかもしれない。しかし同僚は「俺にはそんな力量はないし、あの生徒を3年間見てきたが「なんかうざったいことになっちゃった」程度の感覚で、本質的に心をいれかえ改善するようなことはないように思える。むしろ補導されることによってさらにすさんだ感性を持ってしまうのではないか。結局、クールに付き合い卒業式までトラブルが起こらぬよう指折りカウントダウンするのみだ」
同僚は淡々と話し続け、時に興味深げに「ひょっとしたら警察はあの生徒を泳がせておいて、網を張って買春者を燻り出したのではないか」と推察して見せた。
学校の生活指導には限界がある。しかし、学校という建物に生徒が集まってくる限りそこはまさに複雑な人間関係が蠢く社会そのものでありそこではあらゆる手段・方法を駆使した生活指導という「生徒管理」が必要なのである。それなくして学校は学校とはならないのである。
また生活指導の本質は、管理する側とされる側との、対立、妥協、共存の営みでもある。管理する側の施策は、さまざまに改修・変容・効率化しアップグレードしていくだろうが「管理する」という立場は変わりようがない。
むしろ管理される側すなわち子どもと親の在り様というか、生き様が問われるところだ。これには2つの道があると思う。例えばこれを映画つくりになぞらえるならば・・・
一つは、ハリウッド映画産業型、二つ目は低予算手作り家内工業的映画型だ。一方は、多大の資金とすでに才能が認められた監督・プロデューサー・有名俳優とベストセラー小説の映画化権を手にした、成功間違いなしの映画つくり。もう一方は、少ない資金で無名俳優を起用し、それゆえに求まれる工夫と才能、社会・文化的価値・インパクトを持つ手作りの脚本を基にした映画つくりだ。前者は当たる可能性は高いがこけると多大なリスクが待っている。後者はヒットする可能性は低くともインパクトのある小粒の名作に仕上がれば継続して制作活動が続けられる。この映画界の二極化はそのまま、子育てという人生の映画つくりに当てはまるのではないか。どちらの道にも大きな成功もあれば、とんとん、こけることもある。そしてどちらも希望と落胆が幾度も大きな波形を描いて押し寄せてくることだけは確かだ。
さてここで、この原稿を受け取ったジャパマの編集部は、おそらく、大混乱に陥った。当初の、章立ての趣旨からかなりはずれておりしかも、明るい展望がない!本来、教育関係の本に1000円以上もかけて買う読者は、明るい展望を求めているのだ。あるいは自分の教育がやっぱり間違っていなかったのだと追認するその題材を教育本に求めているのである。ところが、この内容では、ただ単に不愉快になるだけだ。ところで、この内容の原稿依頼に関しては、岡崎研究員に編集者は相談している。岡崎研究員は「頼む以上はかなりリスクを負う著者であるので他のライターに依頼すべきだ」との意見を述べたのであるが、「まっ、ええじゃないか」ということで、決まったのだ。そして、岡崎氏のまさに、希望に沿うような?かたちで、原稿は作られた。
それで、編集者は大きな手直しかもしくは書き換えを著者に頼まなければならなくなった。こちらも多分そうなることは予想していたので、内容の大幅な変更は行わずむしろ、完全に書き直すつもりでいた。そして、編集部から連絡があったとき、「書き直す旨」返答をした。編集部はほっとしたようである。
また書き直すに際し、「高校進路」に絞って書くことにした。おそらく読者はこの情報は欲しいと思われるからだ。書き直しの返答からすぐに作業に入り、大枠の下書きは、1時間30分で出来上がった。
以下にその原稿を載せるつもりであるが、まだ、出版されていないので、出版後にのせていきたい。
第1シーズンおは連載ここに掲載する
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このたびおは連載の原稿の執筆を依頼されることとなった。土井研究員は「不機嫌少女」というタイトルで我が娘との関わりを題材として執筆にとり組むこととなった。以下の原稿はその連載のすべてである。この連載を進めるにあたっては山家さんの並々ならぬ助言と協力が得られた故に何とか完成したのであって、その誠意と的確な指摘に対して心から感謝している。思い出せば連載が完結するまでに当初の趣旨とは違う方向へと脱線することばかりであったが、おは編集部の機転と受容の深さによってほぼ原案どうり受け入れられた。このシリーズがますます読者に対し上質の問題提起や新しい「知」の視点を提示していく媒体になろうことが予想される。楽しみにしていきたい。
なお今回は連載が完成するまでの編集者と著者との書簡を各連載ごとに載せることとした。これを見れば著者の思い入れや編集者の誠実な対応を知ることができる。
第1回
「女の子だったわね」・・出産・退院した妻は、親子「川」の字となった寝室で、なにやらつよ〜い意思を秘めたまなざしを私に向けてきた。帝王切開という少々難儀な出産であったためか、生まれた子どもに寄せる妻の思いは並々ならぬものがあった。
もちろんそれだけではない。二人とも教員というその職種から、子育てに関しては教育のプロとしての自負や、さらに「平凡じゃない子育てをプロジェクト(投企)する」という大いなる野望を抱いていたのだ。それゆえ「三つ子の魂百まで」をまさに地でゆくような子育て投企が一歳からの幼児スイミングを皮切りに英会話、幼児音楽、絵画教室、体育教室、多数の児童書の配備などありとあらゆる文化・教育関連資本を投入した。また教員の特典である長期休業を利用して自然・文化・芸術施設への訪問、体験学習等とにかくまめに幼児期の「原風景」を可能な限り多種多様で広範に「刷り込む」ようにしたのだ。
その効果はてきめんで、観察力や記憶力において抜群の成果を発揮し始めた。例えば、ほぼ全員の幼稚園児のフルネーム諳んじるまでになり、またピアノに関しても音楽教室のエリートとしてコンクールの賞を総なめにするに至ったのだ。また妹ができたことにより自己アピールのため益々ひたむきに期待以上の成果を出すことを無上の喜びとする、いわば「とても賢い子」に育っていった。
しかし、小学5年生あたりからこの順風満帆で理想的なプロジェクトにひずみが生じ始めた。ともするとその「賢いまなざし」がその他の友だちに対しては「蔑みのまなざし」へと変化していったのだ。結果として気が強く活発な友達と徒党を組みその他の子を配下において自分の意のままに操っていったのだ。ところがこの仲間の間で対立が生じた。それは些細な原因であった。それは・・
校内合唱コンクールの伴奏は、常に娘の独占場であったのだが、仲間の一人が娘の対立候補として伴奏に名乗りを上げたのだ。結局、選抜テストが行われ娘に決定したのだがそれがいけなかった。「いいとこ取りで、威張りくさっていて、気に食わない」これが徒党を組んでいた仲間の娘に反発する引き金となった。その日から、陰に陽に娘に対する陰険ないじめがかつての友だち3人によって始まった。仲間はずし、無視、すれ違い際の「死ね」などのささやきが実にまめに毎日繰り返されていったのだ。ところで、それをわれわれが知ったのは、1年も後の6年生の5月であった。その日の朝「学校へ行きたくない」とぽそりと言った後、娘は家の門の前で固まってしまったのだ。今までわれわれに黙っていたのは、親の前でよい子でありづけることに固執したからだ。「よい子はいじめられない」そのイメージを親の前では崩せなかったのだ。
結果、一週間の欠席の後、担任を通じての関係の修復がなされた。担任の裁断は「娘に非はなく、対立する3人のねたみが主たる原因」と下され、3人が娘に謝罪するという形で表面上は繕われてしまった。もちろん対立の火種は消し去られることもなく、いじめはむしろ深く潜行し、娘の性格はどんどん歪んでいった。積極的に参加していた児童会なども手を引き、「代表として何かを引き受ける」ということを一切やらなくなった。躁鬱が激しくなり、稽古事にも身が入らない。われわれの「一味違う子育てプロジェクト」は早くも暗礁に乗り上げたのだ。
しかし、この壁を乗り越える方法が意外にも娘から出された。「わたし、あいつらと一緒の中学には行かない。受験をしてほかの中学に行く」しかし、受験までには半年しかない。ここに親子の新たな「お受験プロジェクト」が始動し始めたのである。
編集者の相談
先日お送りいただいた御原稿の件、大変遅くなり申し訳ありませんでしたが、
いくつか、ご相談です。
●タイトル
まだ未確定ですが、タイトル等について、現在のところ次のように考えています。
学年・男女別に9人の方に共通する連載タイトルがまずあって、 各人の一回ごとのタイトルがあって、
されに原稿中に小見出しを2つくらい(編集部でつけるので校正段階でご確認)。
したがって、この間いただいた原稿の「素直じゃない戦士たち」という この連載のタイトルについては、できれば一回一回のタイトルに生かす方向で、
ご検討いただければと思っています。 差し支えなければ、とりあえず仮のタイトルをこちらで付けさせていただきます。
●「前説明」または「お断り」を入れたい 中学校受験というものが、とてもポピュラーになっているのですね。>
小学校高学年女子部分の原稿でも、6年になりたての娘さんより、「受験って何?」
という言葉があって、じゃやってみるかという感じの原稿が届いています。 重なる部分もあるけれどウェイトの置き所も違いますし、基本的にこのまま進めます。
そこで、土井さんの原稿の前か後に、先日のメールでいただいたような 中学時代を語るに欠かせない前フリを書きました」という感じの注釈を
入れさせていただければと思います。 私としては、原稿の勢いを生かし、後ろのほうに「お断り」として入れればいいかな
と 思っています。 これももしこちらで入れてしまってよければ、校正時に見ていただくように
いたしますが、いかがでしょうか。
●原稿の細かい点でいくつか質問があります。
幼稚園の友だち全員のフルネーム暗唱はいつごろ? 入園して○かげつとか、
時間が入る方がわかりやすいか?
妹さんがうまれたのは、おいくつのとき? ○歳○ヶ月などで示したい.
このほか、文のつながりなど、細かい点で多少手を加えた方がいいかなと 思われるところもあるので、FAX等でご相談させていただくか、
これも校正時にご覧いただくようにさせていただければと思います。
他の原稿との調整の関係上、お返事が遅くなり大変申し訳ありませんでした。
どうぞよろしくご検討ください。
それと、校正時のやりとりがFAXで可能かどうか、
可能な場合はFAX番号をお教えください。
よろしくお願いいたします。
著者の返信
その1〜「お断り」は、そちらにお任せします。仮のタイトル、面白いのを付けてください。
その2〜「名前の暗誦は、入園後およそ2,5ヶ月です。では最初の1ヶ月間はどうであったかというと、ほぼ毎日泣き続け、園長さんのおんぶで過ごしておりました。」
その3〜「下の妹が生まれたのは、上が2歳と4ヶ月のときです。下も帝王切開でした。私は3年生の公立の進路保護者会をしていました。ちょうど1月の31日だったので、がっちんこしたのです。2月の中旬まではしたがって、ほとんど学校に遅くまでつめておりましたので、上の子は私のほうのジジババに預けっぱなしでした。しかも、進路指導主事をやっていたので、上の子の面倒よりも、合格基準つくりとか、受験手続のやりくり算段のほうに夢中になってしまって(事実こちらの方が子育て・・紙おむつかえとか、寝付かせ、積み木遊びなんかよりおもしろいからね)父親としてはほったからしの状態でした。それゆえ、その父親の状態を敏感に察知した娘は、さらに自分に目が向くようがんばったようです。妹よりも自分へという感性はこの辺が出発点ではないかと思われます。
その4〜校正のやり取りは、ファックスでも可能です。ただし、2年ほど前から紙詰まりが頻発しており、うまく出ない場合がありますので、そのときは折り返しそちらにお電話します。よろしければ、どこに電話すればよいのかを教えてください。
その5〜細かい文章の修正はそちらにお任せします。大きく内容が変わるようでしたら、メールか電話、ファックスでお知らせください。
それではよろしく。
質問その2
おはようございます。
先ほどはFAXをありがとうございました。
プロフィールも確かに拝受いたしました。
2〜3行目の「フレアー(ゴールデン)お気に入りの場所だ?というところ、
ちょっと意味がわからないのですが……、教えていただけますか? 変な質問ですみません。
どうぞよろしくお願いいたします。
著者返信その2
ピアノのあるリビングは一階で2階に8畳の半分を占めるカウンターがありまして、そこに足の長いカウンターチェアー(バーなんかにある腰高のいす)が4脚あります。そこの私がいつも座る定位置の右側がわが愛犬ゴールデン(愛称はメロディー、血統書上はアメリカチャンピオンのおばあちゃんの血筋を持つ「フレアー」と英語で書いてありました。)のお気に入りの場所なのです。
ところで余談ですが、娘二人は、朝学校へ行く前に、この犬にたっぷり5分以上、上から覆いかぶさって抱きついた後、出かけます。どうやらこれが、儀式になっているようで、犬の方も、それをお仕事と認識しているようです。さらに私を起こすのもお仕事で、毎朝、6時35分に必ず、顔をなめたり突っついたりしてきます。したがってこの犬が寝る前には必ず、歯磨きをさせて衛生には十分注意をしております。
(口臭は人間よりもありません)
第2回
国立の難関付属中学に合格した。友人関係のトラブルに終止符を打つため学区の中学進学を避けお受験をしたのだ。
準備期間は4ヶ月、いわゆる有名私学受験には間に合わない。そこで知識量や難問奇問を出す私立名門校を避け、総合学科的な出題を実施している国立付属大学を受験したのだ。娘は児童会やピアノコンクール、部活動などの文化的実績があったので内申書重視のこの学校の受験では有利に働いた。また試験内容も従来の知識量や旅人算、時計算といった類の個別応用問題解決能力が試されるのではなくむしろ総合的な内容、例えば等高線地図を資料とした「ハイキング計画を立てよ」といったフィールドワーク的内容がメインの問題だ。当然、等高線の読み取りや時間管理、ハイキング内容そのものも問われる。途中に池があればそこで休憩・釣り。等高線間隔の狭い所は回避。見晴らし台では地図上で読み取った山麓写真を一枚。平野部へ迂回して仲間とレクというようにきめられた時間内でいかに独創的な計画を立てるかが問われるのだ。つまりお受験勉強だけを追い求めた子どもにはほぼ回答不能という問題である。
4月から娘は自転車・電車を乗り継ぎ通学を始めた。ところがもともとエリート意識が強かった娘は、エリートの集まる入学先の環境に慣れるためストレスがたまり始めた。反抗期も頂点に達している。難関合格で天狗となり鼻持ちならぬ行動・発言も目立つ。母親との口論も過激になった。そしてついに爆発した。「散らかしたテーブルを片付けなさい」という母親の指示に気を悪くした娘は、炊事場で夕食を作っていた母親に「邪魔だ、どけ!うざい!」と暴言を吐いたのだ。私は怒り心頭に達し「てめぇー、どういう口の利き方だぁ、おい、何様のつもりだ! あやまれ!」と怒鳴った。娘は無視を決め込んでスパゲティーミートソースを何食わぬ顔で頬張りつつ私にガンを飛ばしてきた。私はついに「キレ」てスパゲティーの皿をぶちまかしてありったけのケチャップソースを娘の顔に浴びせかけた。その後、首根っこを掴んで部屋中を引きずりまわしたのだ。娘はパニクッて「うぎゃゃー」と絶叫し頭を抱え蹲ってしまった。妻が止めに入って一旦は収まったが父親として事の顛末の締めを行わなければならない。私は結局「お前みたいなヤツはいずれバチがあたるぞ!」というまあなんともはや、間の抜けた説教で終わったのだ。
しかしながら、それから一週間後に娘は事故に遭遇した。自転車下校途中に歩道の縁石にぶつかり転んだのだ。対応した私は見たところひどい擦り傷だったので消毒をして皮膚科に予約を入れておいた。その後、自分の部屋で読書(ディクタンクシオン、ブルデュー)をしていたら、母親が帰宅してその後どたばたという音が聞こえ、静かになった。2時間後妻が私を呼んだ。「皮膚科じゃないでしょう整形外科ですよ。足指の骨が2本ほど折れていたじゃないの」とのこと。「なぁーんだ折れてたんか」と答えた。「医者が折れてずれた指の骨をこう『ぎゅっ』と引っ張って戻したの。『ごきっ』と音がするたびに『ぎゃー』と絶叫していたわ」妻はこういうことは事細かに説明したがる。私は「ふーん」とだけ答え読書に戻った。さすがに妻もあきれて「あなたに暖かい血は流れているの?なんとも思わないの?」と言うので「はいはい私は爬虫類型冷血オヤジですよ」と答えた。その後、娘に向かって「おい、バチが当たったな」と言い放った。
流石に娘も観念したと思いきや「石が悪い。あんなところに石があるからイカン!」・・「なにぃー石だとぉー」どうやら「イマダ反省ノイロナシ」状態である。
この原稿は読者からの反響が多くて、かなり手厳しい読者投稿が送られた。編集部は、この類の投稿は基本的には読者欄に載せない方針であったようだが、今回は著者の了解の下掲載されることとなった。それほどインパクトのある内容であったようだ。
この原稿に向けての著者のコメント
上記の件については実は前段がありまして、合格通知が来たときちょうど私めは新日系プロレスを横寝で見ていまして「うかったうかった」とはしゃいでいる母娘を尻目に、画面から目を離さず(ちょうどロープ最上段からのウエスタンラリーアットが決まったところだったのです)「そりゃよかったな」とだけ言って、「うっ、うっ」とうなりながらかなり興奮してプロレス観戦をしておりました。これには娘もかなりご立腹のようで、父娘との距離が広がったような・・
挽回するため家族全員が好きなとんかつを食べに行きましたが、このトンカツ屋が名古屋でもまれに見るばかでかく分厚いトンカツを出すところでしかも非常にこくのある味噌カツだったのです。もともと胃の弱い娘はその後ゲロを吐いてしまいました。そのときも私、不肖にも「なぁーんだ、せっかくご馳走したものを全部出しちゃったな、もっったいねぇ」などと口がすべり、以後娘との会話は減りました。
編集者からのコメント・提案
お世話になっております。
留守にしていてお返事が遅くなり、大変申し訳ありませんでした。お・は21号の御原稿、たしかに拝受いたしました。
ご多忙のなかのご執筆、ありがとうございました。
娘さんとのバトルの模様、すごいです……。
一読して感じたことは、友人関係のトラブルを収束するために御受験をして、新しい友達関係でのストレスってどんなものなのかしら?この爆発の場面を中心に、その辺のことをもう少し加えていただいてはどうだろうかということです。
他の方の原稿がまだそろっていないので、少しバランスを見てから、あらためてご相談させていただいてもよろしいでしょうか。
後日もう一度ご連絡させていただきます。
取り急ぎ、お礼のみにて失礼いたします。
著者の返信
編集者による修正案に対する著者のコメント
編集者の返事
お世話になっております。
修正案へのお返事ありがとうございました。
編集部の松田さんより入った「爆発」を盛り上げる提案と、 「事細かに説明したがる」のところを加え、進めさせていただきます。
校正のさいに、もういちどバランスをみていただければと思います。 ありがとうございました。
著者の返事
第3回
部活で裏リーダーとなった娘は次に教室での裏リーダーへの道を突き進む。しかしエリートが集まる学校であるためその道は決して楽なものではない。生徒の多くは自己主張が強くどのような決定も自分の意見が反映されないと徹底的に反対する。そんな「ぴぃーん」と張り詰めたムードが教室を支配していた。
そんな折娘は2つの出来事で他の生徒を圧倒することになる。一つは総合学習。環境問題を大テーマとしてフィールドワークを含めた個人単位の活動が始まった。テーマ選びに悩んでいた娘に対して私は「環境問題が主要テーマだからといって何も公害とかエコロジーをやる必要はない。むしろテーマをずらし国際理解の切り口から取り組め」とアドバイスした。当時はアフガン戦争が話題となっていた。娘は日本人によるNGO活動が一部で報じられていた点に注目。そこで物的支援よりも医療活動や新鮮な水を確保するための井戸掘りをすすめる団体に取材先を絞った。また運良くその中心人物が近くで講演会を開く情報も手にいれ一人で取材をかけたのである。それによって出来上がったレポートは環境・国際貢献・生き方学習などすべての総合学習の内容を網羅することとなり最優秀の評価を受け、また下の学年には模範推薦論文としても紹介されるに至った。その結果、教室に走ったカルチャーショックは大きく誰もが「あいつにはかなわん」となった。2つめは部活の試合だ。たまたまクラスの友達が応援に来た。そこでは1点を争う壮絶なシングルスの試合がなされていた。市民体育館中に娘の「活入れ」の声が響く。40分以上にわたるゲームに勝利した娘に対し割れんばかりの応援と賞賛が与えられた。この状況は次の日にはクラス中にいきわたり「部活をやりながら勉強や研究発表もすごい」という評価が娘になされ一気に裏リーダーへの地位を駆け上った。
以後グループによる総合学習や文化祭、野外学習などの「しきり」や教室での意思決定などは娘の最終的な賛同を暗黙のうちに必要とするようになった。
ところがそんな折、娘の体調に異変が起こる。もともと偏食気味で食は細かったのだがますます食欲が低下し、しかも慢性の胃痛を訴えるようになった。市販の薬では効果が出ない。そこで胃腸科に通院させた。「うーむ、これは胃壁が荒れているなぁ。胃カメラを飲むまでもないがバリウムを飲んで検査だけはしておきましょう」とのこと。結局、神経性胃炎になっていたのだ。2学期の文化祭実行委員と部活の両立、ピアノのグレードテストなどが引き金となた。つまり裏リーダーとして重大決定に対して娘の意向を反映するというクラスの地位は確立されたが、その分さまざまなトラブル調停や発言が娘にふりかかり大きなストレスとなっていたのだ。また室長などの表リーダーとの関係もある。例えば室長は朝の会で文化祭演劇総監督の立候補を促す。誰も手を上げない場合、昼放課などに説得作業をすすめるのは裏リーダーの仕事だ。表リーダーは伝達し裏リーダーは説得する。しかし今更このポジションから逃避することも娘のプライドからできなかった。
結局、胃薬が処方された。薬効あって娘の食欲は回復した。いやそれ以上になった。テンコ盛りのガーリックライス、分厚いステーキ、大皿に盛られたサラダをたいらげ、食後30分にはシュークリーム3個、焼きプリン、板チョコを食した。しかも就寝前に妻とベビーチーズを肴にワインをグビグビやりつつ学校の愚痴で盛り上がるという夜宴に興じたのだ。
スポーツをやっているので体つきもマッスルになってきた。裏リーダーの風格満点ということか。しかし副作用もあった。食欲増進とストレスの関係から「ニキビ」が顔全体に噴出してきたのだ。しかし妻との夜宴を取りやめる気配は微塵もない。しかもほろ酔い気分で妻の布団に添い寝するという「赤ちゃん帰り」?が発生したのである。
著者のコメント
実は、この後裏リーダーとして裏街道を突き進むわけですが、合唱コンクールや文化祭の劇で、それぞれ3〜4人の女の子を泣かしたり、男子からは唯一「さん」付けにされるなどの院政をしいていくのです。そのことをほのめかす文章が終わりにあったのですが、字数越えでカットしました。
スカートの件ですが、実は、制服廃止運動が生徒会からおこって(過去にも2〜3回あったようです)、実際、学校サイドも試用期間として3週間ほど私服で通うことを認めるという、時期もありました。そんな関係から、制服に関する、規則はかなり甘く、事実上どんな風であっても、注意はされません。逆に、その分、反発のための服装の乱れというのは、この学校の子どもにとってさほど意味のあることではなくむしろ、服装のセンスとか、生まれ育ち、常識の線などのいわば根本的な本人の在り様が問われるという状況です。そうなると中一の娘は、単純に親への反発という形で、スカート丈を短くしているのではなく、どういうスタイルだとどう思われるかを、探っている状況であったので、さほど気に留めるまでもなく、ひざ上10cmに収まったのです。
小学校時代に表リーダーとして活躍して痛い目にあった娘としては、裏リーダーとして行動することに対して本人も、私から言われて「なるほど」ということもあったようで、すんなりきいたのです。「なるほど」とは、クラスでモノが決まっていった
り、ある種のけんか、グループ間抗争は、裏リーダーが尾を引いたり、あるいは解決させたりしていきますから。裏と表を同時にやれるやつというのは、まあ、ひとつの学校でも数名ですね。実際、劇準備でトラぶったとき、生徒会の執行部の連中は、「オレ、生徒会があるから」と逃げていったと娘が言っていました。結局尻拭いをしたのは娘だったとのことで、こういうことはよくあるので。
先回のバトルの続きの件ですが、さらなるバトルというのは「いかにも」という気がします。実際、子どもは立ち直りが早いので、表向き時には従順になったりします。結局、あの件について娘が悟ったことは「調子こいて親に接すると、時にドカンとやられる」程度のことです。
それと、「親もひとくせある」ということを今回、前面に出しました、これって事実でしょ?ひとくせある子どもの親はその100倍ぐらい曲者ですからね。毒は代をさかのぼるに連れ、濃くなるのですから。こういう面を、晒すという記事は「おは」の場合あまり出てこないので、と勝手に想像して、ダーティーオヤジィーを登場させたのです。
著者のコメント2
編集者よりの質問
先日は「お・は」の校正をありがとうございました。
2点、質問・ご相談です。
●あゆみさんのバリウム事件(?)は2年生になってからですか? お年が14歳2ヶ月とあったので……。
→2年生ですからいいと思いますが。
●小見出しを「ストレッサー」と直していただいたのですが、 少しわかりにくいかなと(広辞苑でも見出し語にはなっていない)思います。
→1年生の保健の教科書に出ているのですが。難しければ「ストレスもテンコ盛り」でよいと思います。
たとえば、あとに出てくるガーリックライスにひっかけて、 「ストレスもテンコ盛り」なんてどうでしょうか?
よい案がありましたらお知らせください。
編集者より依頼のあった加筆についてコメント
第4回
娘が学年末の成績個表を誇らしげに開帳した。学年順位が3番でありしかも1番とは8点差とのこと。娘いわく「1,2番は帰宅部、私は部活で帰宅は8:30しかも土日も部活出校」「これってすごくない?」
ところで1年生のころ娘は勉強方法に戸惑いがあり成績も安定しなかった。しかし学校でとるノート以外に、まったく白紙のノートから復習ノート兼テスト対策ノートを作るというやり方をどこからか仕入れてから一桁をキープするようになった。時にはまったくテスト勉強をせず何番まで落ちるかという「自己実力検証」までやる始末だ。それがまた10番台におさまったのでかなり自信を深めた。
そして当然のごとく成績結果に対する褒章「ギフト」を要求してきた。娘は「ケータイ」を欲した。妻はその気になったが私は拒絶した。ケータイは中学生のコミュニケーションを軽薄短小にするからだ。例えば、誤解を解いたり謝罪したりする場合、本人同士さしでやるべきなのだが、往々にしてケータイで済まそうとする。この軽薄な関係性によるリスクは連絡の利便性をはるかに上回るものだ。
結局、パソコンを与えることにした。私は既製品と自作のパソコンを所有していたので既製品の方を渡した。さらに、娘専用のメールアカウントも与えた。ケータイのメールよりはましという妥協の結果である。
さて、娘に与えるパソコンであるがハードディスクにはすでに色々なものが入っている。とりわけ「アダルト系お宝」の残骸は完全に消去する必要があった。私は注意深くその作業を終えた後、パソコンを渡した。
そしてパソコンの様々な操作方法を娘に伝授したのだ。いろいろな技を教えるたびに娘はオヤジのパソコン使いに感心しているようだった。私は得意満面になって、かなり難しい裏技なども伝授していった。写真加工、様々な媒体のコピー、ゲームプログラムの吸い取り・改変まで教えた。キィーボードの練習には「ゾンビ連打」を利用しついにはブラインドタッチで私のスピードを追い抜くまでになった。
こうして娘のパソコン使いは飛躍的に進歩したがそれが裏目に出た。パソコンは重いソフトを使うと調子が悪くなることがある。そうした場合、調子が悪くなった時よりも前にパソコンを戻す、復元機能を使うと回復することがある。私はこの方法も娘に伝授したのであるが、メモリーを食いつぶしていくメモリーリークという症状が出始めたとき娘は復元機能を使いパソコンを修復させた。
そうしたらなんと、慎重に削除したはずの「アダルト系お宝」の残骸まで復元してしまったのだ。どうやら復元ポイントを私が所持していた時点まで遡って指定したためにやばいヤツがゾンビのごとく蘇ってしまったのだ。
娘は「スケベオヤジめ!毎晩遅くまでパソコンに向かっていたのはこんなものを見るためだったのか」ということを瞬時に見破ってしまったのだ。
娘はまず妻にこのことを密告した。しかる後に私にこう言い放った。「おとーさんって、高価なパソコンで高度な操作を駆使して『軽薄タンショウ』なものを集めているのね・・」
私は答えた。「こういうものを首尾よく手に入れたいというエネルギーが難しいパソコン操作を会得していくためのパワーを生み出すのだ」
ストレス解消のため就寝時に添い寝してくる娘は、私の横にも構わず入り込んできていたのだがそれ以後、この「赤ちゃん返り」はなくなった。
著者のコメント
編集者の修正案
お世話になっております。
いち早く御原稿を寄せていただいておりながら、 具体的なお返事が大変遅くなり、申し訳ありませんでした。
今回の原稿(と、メールでのお言葉)、さいしょドキッとしたのですが、 よくよく原稿を読んでみると、なかなか味わいがあり、
なんだか気に入ってしまったのです(編集部でも好評です)。 そして、文章が少し先走っている感じがするところだけ、
言葉を補ってはどうかと案を作成するのに手間取っておりました。
赤字のところが、補ってみたところですがいかがでしょうか。
少しわかりにくいかな、説明がほしいかなと思われるところには
質問を入れております。ご検討いただけますか。
著者の返答
タイピングソフトはたくさんあります。 ゲームのプログラム改変は例えば、プレステ2のゲーム情報をパソコンに吸い取り「無敵」とか「全ステージクリア」とかに書き直してセーブするのです。するとどんなに難しいゲームも最後までクリアできてしまうのです。今流行のファイナルファンタジーなど、これで大体2〜3日で終わることができます。
ケータイの件ですが、きっと書き始めればそれだけで10枚ぐらいいきそうです。確かにわれわれもメールでやり取りをやっていますが、ケータイメールはちょっと表現しにくいけれど、まあ今の使い方は単なる連絡事項なら便利ですが、しかし、手紙とも違います。たとえばウエブによる情報発信とペーパーによる出版との違い。まさに天と地ほどの差がありますよね。
ところで近頃、子どもたちは授業中に手紙のやり取りをコソコソやっておりますが、これまた、今までの「手紙の文法」じゃないのですね。むしろ携帯画面そのまんまの記号化された絵文字なんですね。「てめぇー ウザイ バカ 至ね」(至ねは当て字)なんていう手紙が、けっこう飛び交うわけですが、受け取った側はただ、わけもわからず恐れおののくわけでして、苦労してトラブル元を解明した担任は結局当事者を呼んでひとつ部屋のなかで何時間も話し合うのね。そして解決への第一歩がスタートする。もっとたちが悪いのは、そういう手紙が掃除中に発見されると、いじめにあっている子が恐れおののく・・「自分あてではないと思われるが・・自分へのメッセージだとも思い込む」こういう子はけっこうメールマニアが多いのですが、ケータイ絵文字によって真意が伝わるという幻想が単なる悪ふざけも真に受けて鬱となる。しょっちゅうですねこういうこと。
まあこういう流れは止めることはできませんが、ケータイ文法の流れにはまらな
い、そういう予防策は必要かと思います。上の娘はすでに高校1年生、どうやらその流れにはまらず、ケータイのマナーモード「ブリブリ」をときにうざったく?感じているようですが、下の娘、中学2年はケータイを持たずしてすでに、パソコンメールでちょっとやばくなっています。パソコンメールは携帯とも通信可能で、結局、ケータイ記号化絵文字がとびかっとるのです。
修正案の中にケータイの長所もあるのではないか?とのコメントが編集者よりあったため少し長めの返答をした。ところでこの書簡の後すぐに例の小学生女子による殺害事件が発生したのだ。
第5回
娘にボーイフレンドができた。告白されて付き合うことにしたそうだ。情報源は妻からであったが、その折娘は妻にこう述べたそうだ「お父さんには、あまり言わないでよ。何しろ大事な娘と思われているから、めちゃ、心配するから」
彼氏の細かいことは妻に伝わっているらしいのであるが、父親に直接話すことはまったくなかった。しかし妻に言えば自動的に私に伝わることは娘も先刻承知である。
妻は笑いながらいった。「あゆみはねぇ、彼氏の背があなたより低いことを気にしているのね。それに、何かというとあなたとの比較で、彼氏の話題を持ってくるわけ。娘ってそういうものなのかねぇ」
ところで私はどうかいうと、二つの感情を同居させていた。一方では冷えた目。「所詮中学生の恋愛感情などいわばファッションのひとつ。ほかの子も付き合っているから自分も出遅れずキープしておこう」まあこれは中学教師でもある私の視点になろう。
もうひとつは不安。娘の気持ちがさっぱりわかっていないのではないかという不安である。そういう点では娘の「心配する」という読みはあたっている。
そこで結局、この不安が私をして(実を言えばかなり好奇心を抱きつつ)娘に探りを入れるという、オヤジ根性をはびこらせることとなったのだ。
わたしは、娘のいる場で妻との会話というかたちで彼氏のことを話題に上げつつ娘の反応を探った。例えば「デートの日と家族旅行が、ガッチンコしたとき、どちらを優先するか?」などといったどーしょーもない話を妻にして、ちらちらと娘の顔を伺うといったことだ。妻は一応「自分だけが置いてけぼりをくうと思えば家族旅行を、興味がなければデートの方を・・」といった当たり障りのない受け答えをする。そしてさりげなく私が「あゆみはどうだろう?」と聞くと沈黙である。トロい問いかけにはあまりにも冷淡な沈黙、いや無視を決め込む。
やむ終えず、暇を見つけては女子中学生の感性を表わしているとされる、小説や映画を買ったり借りたりしてみる。しかしどれもしっくりこない。とりわけ映画化された学園恋愛(事件)モノは、けっこう内容・結末ともにショッキングである。
しかしとりあえず検証ということで、職場の生徒(まさに現役女子中学生)にそんな映画の感想を聞いてみると、いろいろな受け取り方があってますます混乱にいたる。「へぇー、先生はそんな映画を見ているんだぁー」とクラス一の秀才・美貌で、とりわけ繊細な感性の持ち主である生徒に言われてしまった時には「あっ、いや、娘が告られて、どーゆーふうなんだかと。しかしトイレ掃除の真っ最中にこのような話題はいかにもシチュエーションがくさいなぁー」といってその場は一同大笑いとなった。
その後、娘の彼氏の話題がのぼったとき、娘はいきなり口を開いた「お父さんはどうして、おかあさんと一緒になったの?」いきなりのこの問いかけに思わず「あっ、それはある映画の女優さんに面影が似ていたから」と答えると「お母さんそのものを好きになったわけじゃないんだぁ」「いや、それは数ある理由のひとつであって、もっといろいろと言葉ではいえない二人だけでのことが・・」「わたしも、いろいろな気持ちがいっぱいあって、どうしての説明なんてできないよ」
うーむ、一本やられたな。そしてなんだかその時娘が自分から遠くなったように感じたのであった。
著者のコメント
編集者より返事
新学期がはじまってしまいました。 ご連絡遅くなり申し訳ありません。
●お預かりした御原稿で、1点だけお尋ねしたい件、 「女子中学生の感性を表しているとされる小説や映画」
とは具体的にはどんな作品でしょうか。 3行ほど、余地があるのでいくつかタイトルをあげて
いただけるといいのではないかと思います。
●次号でこのシリーズ連載を少しリニューアルしますが、 姿さんにはぜひ再登場いただければと思っております。 連載タイトルも一新し、こんどは下の娘さんを中心に お願いできればということで編集部でまとまっておりますが、 いかがでしょうか?
ペンネームを変えることもあってもいいかも しれません(変えても、同じ著者だとわかるかな?)
夜にでもまた一度お電話させていただくつもりです。 どうぞよろしくご検討くださいますよう、お願いいたします。
著者の返答
やや古いところで、大林監督の尾道3部作・新3部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」「ふたり」「はるか・ノスタルジー」まあ、あたらしいところで「害虫」「ユリイカ」本では「蹴りたい背中」などなど若手の小説、赤川次郎、なども少し。
内申書はどう受験に影響するか
子どもへの文化資本が内申を左右する時代
著者のコメント
2007年の3月出版ということで、進路がメインテーマとなった。そこで、中学校での高校受験の内申書について書くことになった。54321はどうつくのか? それを受け取った高校サイドはどう判断するのか?
はっきり言って、かなり感覚的な領域が大半を占める内容となった。合理的評価を求めながらも、決してそうはならず。また、それを受け取った側も(高校サイド)その高校独特の学力・人物評価を下す。少子化の時代にあたり、高校サイドは生徒数を確保したい。しかし、質も上げていきたい。質の低下はそのまま生徒離れを起こすのであるから。以下は文化資本、教育資本をキイ概念に書いてみた。
本文
最近の教育改革で中学校を大きく変えたのは週休2日制と相対評価から絶対評価への変更である。ここでは後者が内申書に大きく関わるので述べていきたい。
相対評価は必ず1割は1や5をつけなければならなかった。この縛りは評価するとき、どれほど理解できたかというよりも他の生徒と比べてどれだけできたかということが数字ではじかれていた。
ところが、絶対評価では態度や知識などの4〜5種類の評価観点を、教師の考えた学習到達結果によってABCや◎○△などで個別に付けられ、そこから5(10)段階評価がはじき出されることになった。すると傾向としては1や2が少なめに、4や5が多めに、3が増えたり減ったりすることになった。(あまりに甘い付け方をしたために改善命令が教育委員会から出たこともあった)それで対策としてExcelの関数など使って、態度、判断、知識、技能などでABCを54321に付け替えていくときにABCの観点に重みの幅を持たせ点数化するのだがまた齟齬が生じる。例えばABABなのに5が付いたりAAABで3が付いたりすることがある。AAABなどはそのまま4にしたいところだ。しかし能力や態度を他の生徒とのバランスで見た場合やはり3なのだ。絶対評価といいながら実は相対的な評価も加味している。
ある二人の生徒間で「オレはこの授業ではあいつよりは絶対にできている」のに(たいていこの生徒の感覚は正しい)評価が同じか逆転していると教師の評価精度の不正確さや不当な贔屓があるのではないかと生徒は思う。それで終業式のときには抗議のため職員室前には多くの生徒が待ちうけることになる。保護者の抗議も多い。
それが高校受検の内申書などに関わってくるともっとシビアだ。受検は完全に相対評価型なので評定合計の点数で序列がつく。
では、評定で生徒はどのように格付けされるか?まあ感覚的には
1を取る生徒〜不登校、触法行為、授業妨害、学業遅進、無気力な生徒という具合に見るだろう。
2〜授業には参加しているが、内容をほとんど理解していない。
3〜相対評価なら2の生徒がこのなかにかなりいる。一応まじめに授業を受けている。しかし50%以上理解しているかは疑わしい。
4〜テストは中の上、提出物、発言、やる気はある。まじめだが応用力よりも基礎学力が良い。
5〜よくできる。しかし、学校間格差を考えると、優秀であると断定はできない。
ところで私学受験などは、内申書を見ないところもある。当日のでき次第だ。公立も上位校は当日のテストのウエイトを内申書より重くする。しかし中・低辺校などは逆に内申書と当日試験を同等に扱うところもある。試験がさほどとれないので、内申書も合否の要因となるのだ。私学も内申書を重視するところもある。受験時のテストと内申書の評価合計をもとに3年後の進路まで追跡調査をして合格基準をつくるわけだ。
公私学共に低辺校は9科が2前後、生徒の集まりが悪い高校はそれ以下でも合格というのが最低ラインとなろう(ただし私学はあし切りあり)。上位校は9科合計が40点以上で当日の試験のでき次第といったところか。
絶対評価は教師に説明義務を課せられる。それゆえ子どもを細かく評価するようになった。つまり、考え方や行動、身体などに微細な眼差しを向けその過程で微視的な権力を生徒に行使するようになったと思う。それは結局、学校教育に関わる子どもの「教育(希望)格差=生活格差」を微視的に記号化して子どもに刷り込む。それが3年生では進路にも影響する。先にあげた5段階評定は子どもの学習意欲の格差であり、高校からは大学や就職に向けての格差にも連動している。そういう意味で内申書は、学校で得られた学習成果というよりも子どもへの教育資本をどれだけ投下したかといったことを評価しているものなのだ。
注;第2稿であるため、出版されたものとは多少違います。
「お受験」と子どもたち(注;最初この題名で出され、編集段階で上記のタイトルとなった。
内部と外部
娘の同級生が自殺した。もう3年も前のことであるが、某有名国立付属高校の3年生であった娘と同じクラスの生徒である。
娘は、中学校からお受験をしてそのまま高校までエスカレートで上がっていった。自殺した生徒は高校受検で入学してきた生徒であった。
この高校の受検による受け入れ体制はかなりユニークな方法をとっていた。すなわち、中学お受験の門はそうとう狭く、テストも難問、求められる能力が学力にとどまらず、コミュニケーション能力や創造性、芸術的能力など何かしらの一芸に秀でた力がなければ合格しない。5つや6つの小学校から受検しても、全滅ということもざらにあるほどの難関校である。
ここで入学してきた生徒たちの集団が「内部」といわれた。
一方、高校からの受検は難易度が低くなる。これは高校サイドが意図的に操作したもので、だいたい県内の一般受検における中のやや上程度の生徒の層を意図的に合格させたのである。(違う質の生徒を混ぜるということらしい)よって、高校から入学してくる生徒は、中学校から入学した生徒よりも、学力が低くなる。もちろん数名はトップレベルをキープするような生徒も入学してくるが。
かれら,高校から入学した生徒は「外部」といわれた。
お受験進学塾の対応
当初、大手お受験進学塾は、この学校のお受験のコースを用意していなかった。なぜならば,お受験進学塾では対応できないようなそんなタイプの受検内容なのである。しかも募集人員も少なく有名大学への進学率が高いというわけでもないので,この学校をターゲットとした受検カリキュラムは用意されなかったようだ。したがって,娘がお受験をするときにはここに対応できる私塾を見つけ出し,受験対策とした。
しかし、難易度が高いという噂が立つにつれてさらに受検者が増え、それに対応すべくコースが大手お受験塾でもボチボチ新設されるという流れもできてきた。合格者数の希少性は商売になるのである。
学校内の格差
中学校時代,この学校でもいろいろと人間関係のトラブルはあったが,個性派集団の集まりという独特な雰囲気を創り出しながら生徒同士ではうまく棲み分けていた。
しかし,高校になると「外部」生徒が流入してきて,またそこではなかなか両者がなじむことはなかった。
たとえば、フィールドワークひとつとっても、「内部」の生徒は一人ですべて準備するよう鍛えられてきた。ところが「外部」の生徒は、職業体験学習という形の、教師が90%以上お膳立てした,フィールドワークの経験はあるものの、自分でテーマを探し、アポイントメントを取ってレポートを書き上げ,ついでに長時間かけて報告会をするなどという「内部」生徒ならばうまくこなせることも「外部」生徒はまずもってできない。
しかも,「内部」生徒たちは勉強だけではなくピアノやバイオリン,マンドリン等の達人。全国レベルで賞を取るような絵の達人。スポーツの達人・・といった一芸に秀でた一団だ。
このように「外部」と「内部」の差異は,勉強から生活全般にかけて、言うなれば文化資本の格差となっておりその隔たりは大きい。
結局「内部」と「外部」は別々に棲み分けるような学校生活の流れになるのだがそんな中で仲間つくりに失敗した生徒は、とたんに孤立することになる。
自殺した生徒はこうした人間関係が、原因のひとつになっていたようだ。欠席がちとなり、ついには不登校、そして進級できないことがはっきりした段階での自殺である。この事実については、卒業式後に学校サイドから生徒に知らされた。もちろん、娘にはすでに承知していたことではあったが。
お受験に走る人々
教育改革という名の「迷走」は、お受験熱をヒートアップさせている。他方で、学校を託児所と割り切った保護者層も分厚くなってきた。
この2層化の現象、とりわけ託児所割り切りの層の行動パターンはさまざまなところで触れられているので、ここでは、お受験組サイドのことについて考えてみたい。
ところで「なぜお受験をするのか?」という動機の点について,当然のごとくその理由は各方面で解明されている。しかし、それを見てみても、今ひとつしっくりいかない、どうも説明が核心に迫っていないものがあるのだ。
いくつか挙げるならば、例えば「より良い環境でよりよい教育を受けることができる。だからお受験だ」というもの。
「そのコースを進めば、大学、就職まで保証される。だからお受験だ」など。
あるいは「教育にかける資金が潤沢である。ゆえに温水プールや全館冷暖房完備,ウオッシュレット付き清潔トイレのある校舎で,高級住宅地に隣接したよりよい環境のもとで学校へ。それは勝ち組の当たり前の行動パターンだ」・・というような説明がなされるのである。しかし,次に挙げるような現象をどう見るか?
お受験学校の現状は
中のやや下ぐらいの生徒を集めている私立中学校がある。地元の公立中学校のほうが明らかに学力レベルが高いのに・・・受験する生徒の家庭は経済的にはぎりぎりで,母親はパート勤め。にもかかわらず託児所割り切りの層の行動パターンにならず,なぜ受験に走るのか?
上位3校に入るような有名私立中学校なのに授業崩壊が頻発したり、学力低下が進んだりしている。
あるいは、心の病が蔓延し、リストカット(アームカット)といった自傷行為や自殺が増えているということ。
お受験校の教員の正規採用者比率がどんどん低下して、ほとんど若い非常勤教師に頼っている現状での教育技術のレベルは高く維持できるのか?
上の大学をそのまま卒業しても、1年契約の社員にしかなれない。ゆえにさらに高いレベルの大学受験をするためお受験校を腰掛にして、結局大学進学塾に通い家庭教師を雇い入れる。
また,2007年問題の関係で教員採用数が増加することを見越して、どんどん教育学部系新校舎を建て続ける、バブリーな有名女子私立大学がある。(薬学部や管理栄養学科の増設も同じである)しかし、明らかに5〜6年で採用増加ブームは去ることがわかっているのに、箱物に投資し続ける理由は?
上位お受験学校の「内側」
このようなお嬢様学校に通う生徒の家庭は、もちろんそれなりにリッチである。一戸建てもしくは高級マンションを購入できるほどに。また、資産家も多少存在する。
実は下の娘も有名お嬢様女学園中学・高校と通っているのであるが、私自身の現状認識からしてもわからないことがある。
この学校の生徒たちは、これ見よがしのブランドものを身につけるコテコテ娘はいないし、学校もそれをあえて禁じている。このコントロールこそがまさにお嬢様学校たるゆえんなのであろう。制服こそが最高のブランドであってそれに、コテコテと他のメーカーのブランドをぶら下げるのは無粋であると。
しかし、勉強の方はいささか異様な状況である。はっきりいって全体的にあまり学習意欲が旺盛というわけではない。上位1割とそれに続く学力差が大きいのである。例えば、9科のテストを行うとクラス3番と4番との間に60点以上の差が出る。本来、お受験を通過しているので同質集団だと考えられるのであるが、実は学力格差が大きいのである。
我が家にはほぼ3日に一回ぐらい、お嬢様学校専用の学習塾から勧誘の電話がかかる。お受験の入り口でもうけ、入学後にオチこぼれないように,さらに学習塾商売が繁盛する。高い授業料を払っているその学校の教育技術はどうなっているのだろうか。
ただ、明白なことはたとえお受験に成功し、エスカレーター式で大学へ進学しても実は、その大学の学部や学科によってさらに格差があるということだ。したがって、高校で成績が上位に位置していないと良い学部・学科に推薦はされないということだ。
とはいえ、この学校の大学からの就職率は高い。さらに裏の情報として、県下の中企業の社長夫人にこの学校出身者が多いのだ。また、再就職率も女性にしては高い。つまり、子育てが一段落したところで、再就職するときに大学の教授や先輩(中企業の社長夫人)の人脈によってパートや派遣社員ではない就職先が得られやすいのである。このような10年20年先のことを考えた上での中学お受験なのだろう。
お受験に邁進するもう一つの裏事情
また、なぜお受験をするのかということの理由の中に、実は逃避的理由も根強い。都市においても生活レベルなどの環境に大きな格差がある。自分自身いくつかの中学校を赴任してみてわかったのであるが、それはまさに驚愕たる差なのである。
その中でも最も深刻なのは、ひとつの中学校にまったく生活レベルの違う小学校区の生徒が通学してくる場合だ。
一方は、高級マンションや、地付きの土地持ちや広い一戸建ての持ち家を持つ小学校区。
他方は、県営住宅や市営住宅などの低所得者が密集する小学校区である。
上層はその3〜4割近くがお受験をして地元中学を離れる。ところが、他方はお受験ゼロでそのまま、地元中学校に入学してくる。
中学校内での対立や差別は深刻だ。外国人も多くまったく日本語が通じない上に、民族間抗争もおきる。
さらに深刻なのは、市営・県営学区の生徒間の抗争や差別、イジメがひどく,さらに病的な傾向が多いことだ。もちろん、上層地区の生徒たちもしっかり餌食になってしまうが、なかにはうまく立ち回る生徒もいる。
そういう状況では、たくましい生徒が育つともいえるが、むしろ潰される方が多い。
資金的に余裕があれば、生活基盤は上層である地元に置き、子どもは教育環境の良い学校へお受験させるという選択肢を考えるのだろう。もしも進学塾で思うような成果が出なかった場合、それでも、地元学区からの脱出を図るために,多少レベルダウンしても受け入れてくれる私学中学に進学するだろう。このことが先に述べた,中の下の生徒を引き受けるお受験学校が存在する理由なのかもしれない。
東京都が学校選択性を進める理由は是非を別にしてもよくわかる。要するに悪ガキのいないところ、教育に強い関心を持っている親の集まるところに進学させるということである。たぶん、学校の教育方針などは、二の次であって、そういう方針に強く関心を持つ、あるいはそういうアンテナを持っている親が集まる学校は教育環境もよくなるだろうという発想であろう。
それほどに地域格差による学校環境の差は大きいのである。
学校ノマドと隔離
お受験校はこうした、学校ノマド(遊牧民)の受け入れ先にもなっているのだ。
荒れている学校に赴任すると、暴れる生徒の「隔離」や学校からの「排除」を、権限さえあれば連発したい誘惑に何度も駆られる。現に触法行為によって「少年院」などに「隔離」される場合もあるが、第2弾、3弾が控えている。晴れて出所したら,出所祝いをする後輩などがあとを絶たないわけであるから、「排除」を続ければ結局は、東京のように地区によっては廃校の事態もありうるだろう。
しかし、あえてここで言い切るが悪ガキを暖かい目で見守るほど、私の心は広くない。10倍の努力をして悪ガキを少しまともな方向に導くことができても、その影に普通の生徒たちの100倍の犠牲があることを身にしみて体験しているのだ。
この悪ガキの餌食にならないために親はかなり経済的な無理をしても地元中学校を離れてお受験校へ向かう。
このような逃避的なお受験とは逃避することによる地元中学の「隔離」を意味しているのではないか。お受験熱とは、学校教育の崩壊した部分や「よくない親や子ども」を排除する逆説的な逃避行動ではないかとも思えるのである。
教育改革の一面
今回の教育改革での、産業界の要求は優秀な人材の確保が教育の目的であるから、底辺校などはもとより眼中にない。この層の労働力はアジアに求めることができる。
文部科学省は権限の保持が最大の目的であるから、多数を占める、中・下層の教育に影響力を持ちたいがため、一般大衆が公立小・中学校に留まる策(公立への生徒の取り込み)を講じるだろう。そこに、教員の質向上と成果主義や学校選択制が絡んでくる。「隔離・排除」と「取り込み」の相克が教育再生会議のやり取りではなかったか。
彼らにとっての「再生」とは現状認識では今の公立学校が「死に体」であるということになる。このことは,子どもを学校に行かせている親こそが,一番身にしみて感じていることだ。もちろん無関心層も相当厚くなっているが。
かつて10年ほど前にあった,より良い教育からよりよい生活の確保,といった将来目標を立てていたお受験から、現在は少しでもましな教育を受けるといった逃避的お受験が今後ヒートアップしていきそうである。
注;第2稿であるため、出版されたものとは多少違います。
「おは」NO40 特集U 携帯電話、持たせていいの?から「学校でトラブルが多発するわけ
携帯電話の中学校でのトラブルに関して、原稿の依頼があった。私は、携帯電話を持っていない。妻・娘は持っている。私の親父も持っていない。幸い、我が家では携帯電話のトラブルは起こっていないように思う。しかし、本当のところはわからないが。
私は、当分の間、持とうとは思わない。特に教師をやっている間は持ちたくない。たとえば、休みに北海道に旅をしても職場や生徒、保護者から電話がかかってくるという、私には悪夢のような状況が起こりえるからだ。事実、学年主任は九州にいて、保護者から携帯に連絡があり、1時間以上つかまったそうだ。
しかし、家族で、都会などに行ったときは、妻の携帯を借り、妻娘→私とのあいだで、トランシーバー代わりに利用している。すると、女向けショッピングに付き合わなくてすむ。行き帰りだけ、行動を共にすればよいのだ。そういう利用法であれば携帯も便利である。しかし、これとて知恵さえ使えばなくてもすむのだが。
わたしは、どうも、携帯を開けて、メールや情報収集、ゲームなどをしている格好が、けっして格好がいいとは思えないのだが。やはり、頭が頑固で古いか?
以下はおはで発表されたレポートである。
学校での携帯電話トラブル
「ベタベタくっついてくんな、超ウザイ!」
なんとなく軽く付き合っていた。表向きはベタベタの友人関係に見えた。しかしこのメールで終了。あとは携帯による罵詈雑言の応酬。といっても、3時間ぐらいで一方に加勢がついて1対4と形勢は変化し善悪はともあれ1の方は終始謝罪となる。
文によるやり取りではなく記号と単語によるバーチャルコミュニケーション。この顛末は2通りである。ひとつは、メール攻撃が激化し実際の学校生活でも無視され孤立する。もうひとつは何事もなかったかのごとく収まる。 携帯を使って援交を友人に強要して少年院送りになったという犯罪もあった。ケータイをもつ限りこのような悪の連絡網の縛りからは逃げ出せない。応答しなければ学校でどつかれる。ボタンひとつでしつこく応答を強要される。しかも保護者には伝わらない。
さらにメル友によるトラブルもあった。「ドラッグ乱用友の会」なるものである。この場合相手が学校にいる生徒ではない。掲示板などで見つけたおねぇさんなのだが実際のところは、性別・年齢・社会的身分などは不明である。
はじめは風邪薬の類やコンビにでも売っている精神安定系サプリメント。ついには心療内科などでしか手にはいらないような精神安定剤や睡眠薬をネットで入手してしまうのである。その薬が学校で出回り始め、興味本位で飲んだ生徒が(友の会の友人)突然眠り込んで身動きしなくなった。
他の事例としては、しつこいからかい、嫌がらせ、身体的暴力を受け、ついには青痣が確認されるほどエスカレートして教師の知れるところとなった。しかし、加害者を指導してもきちんと本人に謝罪するところまでいかない。「もうやらない」ということはいったが、それでおさまるようなタイプではない。と言うより半分病気である。しかし、被害者のメールには謝罪文を入れたらしい。その次の日、被害者は「メールで謝ってもらったからよい」とのこと。しかし、一週間もあけずイジメは再開した。やる方もやられる方も「失敗に学び成長する」というステップアップがない。携帯謝罪は単なる一時中断(ポーズ‖)なのである。
相談室でワルガキを説諭しても、どうもケータイのメールのような短文のやり取りになってしまう。長い台詞回しの説諭が使えない。説諭というよりも禁止条項の羅列と再発のペナルティーの宣言で生活指導は終わるのである。本当に話が通じなくなったと思う。
また保護者からの携帯にまつわるトラブルのクレームも多い。しかしケータイでトラブルを起こす生徒の保護者も携帯モードの会話なのでこれを解決する指導力(親力)はないと見てよいだろう。
メールにせよ通話にせよ携帯は記号のやりとり。長回ししない数秒せりふ(最近ミスドなどの短縮形も増えたな)や写メールのやりとり。つまり対話の鍛錬をせずして簡単に対話した気にさせるエセパンドラの箱なのだ。ただし情報端末の利便性は大いに認めるが。
小学生ぐらいでどうしても携帯を子どもに持たせる必要が出た場合。例えば、電車を利用した夜間の塾通いなどでは便利なセキュリティーネットとして利用できる。しかし携帯があるゆえ無理な時間や場所への塾通いをしてしまうというリスクを背負うことにはならないか?
携帯を持たせるならば、親は100%あらゆるトラブルの責任と対処に関しては「腹」を括るべきであろう。例えば携帯トラブルで学校にクレームを入れる発想や行動がすでに逃避行為に他ならないことを知るべきだ。
高校入試の現実―進路指導はいま
「中学一年生の初期行動パターンと進路」
私は27年間1,2,3年というように全て学年を持ち上がってきた。初々しい1年生、生意気な2年生、進路でドキドキの3年生。その経験から1年生の生徒の状態から、ある程度3年生の高校入試の状況を予想できるようになった。
例えば、入学式から3日間の間に、多くの書類が生徒から提出される。この提出状況から、クラスや学年の雰囲気や進路指導状況が予想できる。1日で生徒の95%が書類を出し切る学年やクラスは3年間あらゆる面でやりやすい。70%ぐらいだと苦労するが手をかければなんとかなる。50%だと苦労は報われない場合が多い。それ以下では常識的な学級経営はあきらめる。提出物は学校、生徒、保護者との情報のキャッチボールだ。3者の関係が良好でスムーズであれば3年生の進路指導はやりやすい。
次に集会などの集団行動や学年レクなどの協働活動での生徒の動きによって文化行事や部活動などがどこまで発展的にやれるかを予想することができる。うまくいけば、推薦入試などに連動して有効に活用できる。
最後に言葉使いがある。小学校から上がってきた生徒の言葉使いは、タメ口である。それゆえ「です、ます」使いや、尊敬語・謙譲語を使いこなす生徒は稀少であるが、1学期間この言葉使いの指導を継続した結果によって生徒の状況判断や思慮深さ、TPOが育つかどうかがわかる。言葉使いに拘るのは生徒が教師に対して思ったことを感情も露にそのまま述べるのではなく、丁寧な言葉で表現するために一度、頭の中で話す内容を租借し内言したのち言葉で自分の主張や考えを表す知恵が身についているかどうかにかかってくるからだ。
これは進路決定では、自己分析して自分の力や進路方向を見極めていく思考パターンを持って対処できる能力として発揮される。「進路と文化資本意識化力」
以上述べた提出物、集団行動(協働行為)、言葉使いは、各家庭の持つ文化資本、とりわけ教育資本の注入具合に連動していると思う。子育てや文化活動に多くの文化資本を投入した家庭ではおおむね、この3つは良好である。それはそのまま学習姿勢である、やる気、根気、学習習慣の確立なども身についており、それが3年生の進路にも影響する。
ここで、注意しておきたいことは「文化資本の注入」とは単に塾に行かせるとか教材を潤沢に与えるといったことだけではない。例えばここに200万円があったとする。親は、これをクルマの買い替えに使うのか、ピアノを購入するのかといった親が選択する思考パターンに関係してくるのだ。ピアノを学ばせるという行為は生活に実益をもたらすものではない。しかし、芸術を通じて文化的センスを子どもに刷り込ませる。そういう効果を持つものだ。これはまた、親が代々受け継がれてきた文化資本の有無によって決定される。
文化資本投入とは教育への単なる金の投入だけではない。むしろ知識、知恵、知性、創作力、芸術的活動、健康向上などの獲得に向けての「やる気」の「心性エネルギー投入力」を伴うのだ。もちろん子どもの教育のみに留まらず、親のあくなき文化的活動の参画・投企へのエネルギーも含まれる。私はこれを「文化資本意識化力」と名づける。これが継続的にハイな状態にある生徒・保護者は3年の進路においても成果が出てくる。
以上のことを踏まえ、「文化資本意識化力」を絡ませつつ3年生進路指導に至る子どもの学習体勢や意識・意欲、行動についてより具体的に述べてみたい。
「進路の3本、−1のレール」
私は、進路に関しては3本、−1のレールがあると考える。
その1 新幹線のぞみノンストップタイプ
その2 新幹線こだま型やや延着タイプ。
その3 在来線各駅停車タイプ廃線あり。
その4 −1、はなから線路に乗らないか途中で脱線するタイプ。
その1 新幹線のぞみタイプ
このタイプは、進学塾に行き中1の段階での業者実力テストを受け、常に3年受験(受検)をシュミレイトする学習法を行う。通知表の向上にも力を入れ、貪欲に成績を稼いでくる。提出物、教師への適切な言葉使い、学校行事への積極参加。旺盛な知識獲得。1年生の三者面談(12月上旬)で具体的な進学高校名が2〜3つ出てくる。このタイプは学年順位を知りたがるし(通常は2年まで10人単位の段階などで示す)成績低下には理由を確かめにくる。親の成績向上意識は高く、そのための資金投入に熱心だ。授業妨害が収まらない学校環境に対しては強く反発しはっきりと抗議してくる。2年生ではさらに成績の向上を狙い、3年生では高いレベルを安定させることに力を注ぐ。進路指導に関しては、最高難易度の高校を目指すが、もしものための第2希望も抜かりなく決めている。スランプもあるが次善の策がイメージされており、大きな迷いや無謀な冒険はない。親子とも自分の力を客観的に把握しているのだ。
ただし、高校入試だけにそのエネルギー投入が特化している場合、アンバランスな成績のとり方をする場合がある。例えば、ペーパーテストは良いが提出物がよくないとか、学校での定期テストが振るわず、模試などの実力テストが良い、などである。テストの点のわりに評定が良くないケースである。これは「文化資本意識化力」が、実はさほど高くなく単純に高校のブランドに魅力を感じるタイプである。成績向上のみに文化資本を投入しそれ以外を捨象するため、能力に余力がないといえよう。高校受験(受検)は相対評価であるため懐の深い「文化資本意識化力」のより強い生徒には勝てない。
その2 こだまタイプ
このタイプはまじめに学校でのルーティーン学習をこなしていく。しかし遊びや部活動と勉強への投入エネルギーのバランスシートが安定しておらず、成績の変動が大きい。3年先よりも1週間後のテストの準備に追われる。評定においてはそれなりの結果を出すが、実力が蓄積されているかは疑わしい。親は子どもの行動や考えをみているようで、あまり理解していない。自分の実力を把握できず、3年生の進路決定には多くの混乱をきたす。こだまの駅間同様に中程度のスパン、つまり2ヶ月程度の予測で進路を考えるので変更も多いし、どの高校が押さえ(間違いなく合格する保険受検)となるかがよくわかっていないので、無理な学校をいくつも志望する。三者面談などではなかなか受験(検)校が決まらない。
このタイプの生徒は成績においては全体の中間に位置しその数も多い。ある意味教師の腕が試される生徒たちでもあり、進路委員会などでは時間をかけて合否予測を立て、慎重に親子に接する。「文化資本意識化力」はさほど高くなく親子とも学習スタイルの基本がぶれやすく世の流れや流行に影響されやすい。スイミング、ピアノ、進学塾なども一応経験するが、半端で終わる。部活動も親は成績が落ちればやめさせようとして、子どもを混乱させ、結局、勉強も部活動もその成果が中途半端となる。しかし、歩みは遅いが3年生になれば進路を真剣に取り組むので、必ず道は開ける。学校の多数派はこのタイプなので、進路に関しては3年の夏休みから本気モードで勉強すれば、よい成果をあげることができるだろう。
その3 在来線各駅停車タイプ、廃線あり
各駅でさまざまな欲望に魅かれ、寄り道をしたり、乗り換えてヤンキーの路線を突っ走ったりする。一応学校の用意した学習プログラムに関わるが、身に付けていくという意識に乏しく、学習習慣がない。テスト準備はないに等しく、低い点でも気にならない。部活動などで高い成果をあげることもあるが、学習はさっぱりである。感情の赴くままに行動しトラブルを起こし、反省するが同じ過ちを繰り返す。親は教育に関心がなく、学校からの連絡プリントを見ようともしない。3年生の進路に関しては、何とか行けそうなところに押し込むという手を考えるが、意外に学校の好き嫌いを主張する。「あの学校は規則が厳しいから行きたくない」「制服がダサいからいやだ」といった類の発言なのだ。あまり環境の良い高校には進学できないので、中途退学もある。親が教育資金の目処を正確に算出していない場合もあり、授業料が払えず中途退学するケースもある。生徒も高校でバイトをするがそちらが勉強よりもメインとなり稼いだ金も遊びに消えてしまう。苦学して高校を卒業する生徒もいるが、卒業後は多難である。「文化資本意識化力」は親子ともまったくないと思われる。高校ぐらいの学歴がなくてはヤバイという程度の考えはあるが、中途退学してもあきらめが早い。
このタイプの生徒に対しては、進路指導ではまず合格するところを探し、次に3年間続くようサポートしてくれる学校を紹介する。能力は低いがまじめな生徒や意識改革を行って雑草のごとく粘り強く学校に関わってくる生徒には、何らかの道は開ける。
その4 線路はずれ、脱線タイプ
このタイプは、不登校、傷害事件や触法行為を繰り返すアウトロー達である。劣悪な家庭環境、本人の精神状態、不法な滞在外国籍生徒で日本語が話せず、かつぐれてしまった生徒、DVなどによる家庭崩壊、などで進路の線路にはじめから乗らない、もしくは脱線してはじけてしまった生徒たちである。
その中でも授業妨害や対教師暴力、破壊行為、生徒へのタカリ、暴行が続く「ならず者」生徒の場合、学校内から排除するしか方法がない。卒業式も出ない場合があるので、その場合中学卒業にもならない。少年院や施設などで卒業する例もある。外国籍の生徒については、手に負えない場合「除籍」される場合もある。
3年生の進路指導については、まず三者面談がもてない。できても、進路先は定時制高校か定員割れを起こす公立高校だ。経済的にも最低辺というケースも多く今の日本の経済状況からして卒業直後からどうするのか目処も立たない。自ら生きる手段を模索するしかない。
以上4つのレールを示してきたが、本来レールに乗っかるというのはマイナスのイメージがあった。しかし、現在の日本の労働・生活環境においては、このレールからはずれて自立していくというのは、その1のケース以上の能力と努力・忍耐力が必要だ。
「文化資本意識化力」を高める
4つのケースには「文化資本意識化力」が大きく影響していることは確かだ。ところで、のぞみ・こだまは能力にさほど差があるわけではない。要はどのタイミングでパワーを全開にするかである。曲がり角ではスピードも落とす。実車のように車体傾斜装置を使って無駄なく通過するような知恵も必要だ。しかしタイミングを逸すると現在の格差社会にあってはなかなかその差を縮めることは難しい。
たとえ経済的に不遇であっても、親や子の「文化資本意識化力」が旺盛で、さまざまな学習支援制度を駆使して努力を惜しまず、将来を見据えて「生きていく」ことは可能だ。もしもなけなしのお金があったら遊行費に当てるのではなく、例えば「モネ展」などの鑑賞のために費用を使うという意識、感性が必要だ。上記のような美術鑑賞はほんの一例であるが「文化資本意識化力」を高めるというのは生活のさまざまな領域でその機会がある。日本は先進国の中でも国家予算を教育に割く割合が最低水準だという。しかし国全体が極貧ではない。知識、知恵、教養を高める機会は多い(リサイクルショップへ行けば105円で文学小説が手に入る)。
したたかに、思慮深く、知恵を駆使すれば、明るい道が開ける可能性はある。もちろん「文化資本意識化力」が親子とも0の場合、そしてそれが生活の中で固定化・慣習化されたら打つ手はないと思うが。
江戸・家綱の時代に仙石藩・伊達家において、世継ぎ争いに端を発する「伊達騒動」が勃発しました。伊達家の家訓に「臣下に対し依怙贔屓をしてはいけない」というものがあったのですが、伊達家を支配した伊達兵部は、自分の意にかなうものを優遇しそれがもとでお家騒動は泥沼に陥ります。
このように、江戸時代から今日まで大中小あらゆるレベルにおいて権力を持つ者は依怙贔屓が世渡り処世術となっております。ご相談に出てくる女音楽教師もプチ権力者の「性」として、依怙贔屓を派手に表出させたのでありましょう。相談者も自分の子が贔屓されていればよい先生となるところ逆ゆえに悪い先生と相成った。大なり小なり教師は依怙贔屓をします。普通はただそれをとてもうまくやっていて表に出さないだけのこと。
例えば、テストにおいても自分が教えた生徒にとって有利な問題を作ってしまいます。同じ教科を同学年で教える2人の教師間でのこと。テスト2週間前に「このページはさらっとやってくださいテストにも出しません」と言っておきながらテスト前日に刷り上がった問題にはそのページから多量出題なんていうことはよくあります。
女尊男卑。成績優秀者に微笑み、成績不振者をバカ呼ばわりする。美男美女、胡麻すりの輩、スポーツマンに細やかな教育愛を注ぐ。それが教師ってもんです。この際、教師に対する金八先生的幻想を捨て去り、生身の人間としての教師を再認識しましょう。行動や表情がもろに表に出てしまう単純依怙贔屓型教師への生徒や保護者の対処方法も幻想を捨てることからスタートできます。
相談者の「将来の夢」に対する教師の発言は確かに「夢も希望」もありません。しかしこの点では「宇宙飛行士」(おそらく男)に対しても容赦なく「現実を見ろ」と切って捨てます。また彼女の考えでは「ディズニーランドのキャラクター」=「他者を疑似幸福にさせる使い捨てサービス産業」はそんな甘いものじゃないぞと言いたいのでしょう。そしてそれは確かに真実です。この女教師いや〜な奴ですが、この教師と付き合い、時に立ち向かい、緊張関係をもって学校生活を送ることは「社会実験」になるのではないか。しかし娘さんが涙を流したのもよくわかります。こういう場合、その教師には次のように囁くとよいでしょう。「先生のご指導によって、浮ついた夢を追っていた娘は完膚なきまでに現実の厳しさをたたきつけられ、今だ反省・回復の色なしの状態で臥せって泣いております。つきましては最善の元気回復策をご教授ください」さてどんな策を繰り出してくるか?とても濃〜いキャラの教師なのでちょっと楽しみですね。ところで依怙贔屓した兵部は失脚しその臣下は冷や飯を食い、冷遇された側が今度は甘い蜜の滴る権力を手に入れたそうな。まぁっ、世の中そんなもんでしょ。
H(お金)なんでも買ってしまう
買い物に行くと、こどもが指差したものをすべて購入してしまいます。こどもを預け、私が帰宅すると、おもちゃや絵本が山積み。
長女が双方の両親にとっての初孫。とくに夫の両親はこどもが男三人なので、女の子にメロメロ。しょっちゅう物を買いあたえるので、夫から何度もやめてほしいとくり返し伝えてもらったら、今度は100均のおもちゃを一度に5点くらい買ってくれるように……。「これなら安いからいいでしょ」って、お金の心配をしているんじゃないんですよ。物を大事にさせたいから、とちゃんと説明しているのに理解してもらえず。しかも100均のおもちゃってすぐ壊れてゴミになる。もらった時点で困るのに、あっというまにゴミになり、捨てる私はすごいストレス。なんで私が捨てなきゃなんないの!? と腹も立つ。それでも、買っちゃったものはしょうがない、お礼をいって持ち帰りますが……。
それに、がまんすることを教えるのは、大事なことだと思うのですが。
A 小出しではなく、節目に大きなおねだりを
私は妻+2女&じじ・ばば(私の親)と20数年間、同居してきました。そのあいだ「なんでこうなるの?(妻の“Good By! Let’s go home”宣言=夫婦存続危機)」、「じじばば抗争」などなど、同居トラブルミッションは数知れず。これらをなんとかクリアしてまいりました。
現在は、ばば=要介護5で特別養護老人ホーム入所。じじ=要介護1で週2回のデイサービス。長女は結婚・独立、次女も独立し、老老介護もありながら、同居形態もかなり変わっています。
さて、この経験から思い知ったことは、やっぱり「お金」の大切さです。じじばば世代の経済力に余裕があれば、その使い方によりトラブルはそれなりに解決します。もともと世代間のトラブルに100%の解決などありえません。まあ、たがいに角をかくし、知恵を囃して、適切なおとしどころを決めクリアする。これしかありません。
ここで問題になっているのは、じじばばの「お金」が思うように使われていないという点です。
たしかに、かわいい孫に財布の紐もゆるむということはありましょう。しかし相談者のように、義父母が孫に少額のプレゼントを連発するのは、たんに孫かわいさだけではありません。孫や嫁、その場に居あわせた他者のまなざしに対して「ええかっこしい」を主役として演じたいがためであり、しかもそれが安く何回もできて得られる自己満足に浸れるからでもあります。また妻の両親への見栄もありましょう。孫へのその場そのときだけの刹那的愛情表現と孫のポジティブなレスポンスも独占したいのです。
じじばばには「物を大事にさせたい」とあらためて伝えて少額の贈与を拒否するかわりに、次のような「おねだりママ」を演じてはいかがでしょう。たとえば、七五三の着物に有松絞り*を。五月人形だって兜だけじゃなくてフル装備の鎧兜。お雛様も三段じゃなく七段。ピアノも200万円以上のグランドをいただく……といった具合に。習いごとで一流の先生をつけるための経済援助をおねだりするのもよいでしょう。この時、じじばばから直接現金がママへ流れるというのがベストです。次に両親が決めたものを購入します。**その後すばやく孫主役の「謝礼儀式」を忘れずに。(注:ただし、こどもをじじばばに預けた場合の必要経費などはもれなく支払うこと! これけじめです)
とはいえ、「どっかあ〜ん」とお願いできるかどうかは、じじばばの懐具合にもよりますが、不可能ではない贈与未来予想図を夫婦で相談して、その内容をきっちりとパパ(夫)から両親であるじじばばに伝えてもらいましょう。「必要なときに必要なだけ援助ができるようにお金のストックをお願いします」(トヨタ看板方式だな)と、ママからもひとこといえたらもっと効果的ですね。じじばばのほうも、文化資本の継承はこんなかたちのほうが小出しにするよりよいのではないでしょうか。
ところで「そんな大金出せぬ」といわれたら、今後の老老介護のやりくり算段も念頭に、少額贈与連発型の孫との愛情演技はパパからの終了宣言で幕引きさせます。これでじじばばもしゃしゃり出てこなくなると思います。ただし、孫の預かりなども同時に拒否されたら進退極まるリスクはありますが。
どい・しゅんすけ
愛知県公立中学校教員。結婚した長女夫婦と近くに住み、しょっちゅう顔を出していた孫は、長女の職場復帰にともない保育園へ。孫は「かわいい」が、その気持ちが膨らみ持続することはなく、会って一〇分ほどでラムネの泡のようにシュワァ〜と弾けていくことにとまどう。
* 名古屋市の有松地域で生産されるようになった絞り染め。
**お金は孫やパパではなく、他人となる嫁に流すのです。また何をどのグレードで買うかは、ママ・パパで決めます。できればじじばばはその場にいないほうがよろしい。いろいろと意見されて、思うものが購入できません。
私は教師と生徒との関係というものを「権力エージェント(代理人)とその支配下にある子ども」というように理解しています。決して互いが「お友だちのような関係」とは思っていません。ですから例えば教師が意気投合した特定の生徒に対して、ファーストネームで呼び捨てにする会話形式に対してはかなり不快感を持ちます。このような会話形式を好む教師からすると、どうやら互いにそういう関係であることが、より深い親しみと何でも話し合えるコミュニケーションが成立していると思い込んでいるらしいのです。これは眉唾物で「教育幻想」にどっぷりつかった勘違いではないかとも思います。
学校におけるしつけ教育は本来、家庭でやるべきことなのですが、実際には親子関係のある部分が、つまり権威的家族関係が破たんして、制御がきかなくなったものを学校の教師が代行するという事案になっているのです。学校は子どものしつけをします。しかしそれは、より合理的に授業を進めるうえで必要な行動やふるまい、言葉使いが指導されるのであって、さらに踏み込んだしつけ(品性や気遣いなど)は、つまり親のやるべきしつけの代行は学校では行いません。
教師は学校において生徒を指導し学ばせ評価します。中学生ともなると、その評価結果は生徒の進路に大きく影響してきます。いかに生徒・教師間の関係がフレンドリーであろうと評価を下げることもあります。まさに、それは先に述べた教師と生徒との関係が「権力エージェント(代理人)とその支配下にある子ども」であること示すものでしょう。
教師に対する言葉使いや姿勢・態度がよろしくなければ、テストなどでよい結果を出していても、評価は下げられます。これは「ゴマすり」とか「依怙贔屓」などという低い次元のものではありません。
国語でも習う、尊敬語や謙遜語。これが中学生になっても使いこなせない。
提出期限が守れない。守っていても答えの丸写しである。
授業中、姿勢が悪く、私語が多くノートも取らず、居眠りを繰り返す。そうではない生徒と比較されれば評価は落ちます。TPOのできない生徒も苦労することでしょう。
ところでこのような生徒のふるまいは「先生の授業がつまらないから」という意見もあるでしょう。
しかし、テンションの高い盛り上がる授業など毎回できるものではありません。努力・反復・忍耐力・チャレンジが学校の勉強の9割を占めているのです。学習に取り組む姿勢とその結果が常に求められ、評価され、それが進路に反映するのです。
経済的なことや深刻な犯罪に関わったなどよほどのことがない限り、成績が下位であっても進学はできますが、より高い希望の学校に合格するためには上記のことを身に着けることが必要でしょう。
常識的な、ふるまいや作法を身に着けさせ、社会性を育てていく。このことが現在の学校の大きな役割の一つとなっていることは確かです。
1学期
二つの小学校から進学してきた生徒で構成されるこの中学校は大きな問題を抱えていた。一方は、市営・県営住宅からなる低所得者層で、また中国、フィリッピン、ブラジルなどの外国人籍が多い小学校区。他方は一戸建てやマンションが大半をしめる中間層の学区だ。その格差は経済的な面のみならず、生活の感覚や親の常識のレベルなどさまざまな面においても大きく違っていた。
このはなはだ質の違う生徒がひとつの中学校に集まるのだ。1年生の1学期の学年やクラスではさまざまな問題が発生した。まずコミュニケーションスタイルがかなり違う。例えば、友達を呼ぶときに「パンチ」や「蹴り」が軽く入ったりするので、中間層出身生徒はこれを暴力をと看做す。もちろん悪気などないのだが。また外国籍の生徒たちの人間関係にはある種のスタイル(差別と親しみが混然一体となっている)が確立されているのだが、他方にはそれがわからない。教師に対しても、「オイ」という声をかける生徒がいる一方で、他方は「○○先生」となっている。不要物の持ち込みも多発する。まさに毎日が驚き(ワンダーと言っていた)の日々なのだ。当然、互いの学校同士でもなめられないように突っ張ることも出てくる。
また新学期での提出物や支払いなどの状況にも差がある。準・要保護生徒に積立金などの請求をすると親から抗議の電話(かなり口汚い)がかかる。修学旅行やアルバム代などの積立なので、保護対象にはならないと伝えても理解されない。「子供に2度と金の請求をするな」などと怒鳴られる。
殴り合いのけんかや怒鳴りあいが、ほぼ毎日起こり、ゴールデンウイークを過ぎたあたりから、すでに小学校で学級崩壊の中心となっていた生徒たちが対教師への暴言、女性教師への暴力、授業エスケープなどを起こす。
学校施設確認のための校内散策などを実施しても決められたコースを守らず、途中、落書きや破壊行為などが相次ぎ中断したりもする。もちろんうまくいく年もあったが。
この学校に関しては、このような混乱が発生することは想定されているので、教師のサイドの対処はゆるぎない。しかし、年によって、一クラスぐらいは、手に負えない状況となると4〜5人の教師がクラスと廊下などに張り付くのだ。
手に余るのは、むしろ保護者対策だ。まさに因縁としか思われないような抗議やクレームを行う親が時に教師に対して胸倉をつかむとかパンチが入るなどといった事件が発生する。まあ、親も元ヤンキー(現役ともいえるが(笑))系であるので、教師サイドも大人の対応をするのだが。
他の保護者に関しては、おおよそこの中学校の状況は予測しており、この中学校に進学をさせたくない親は私立中学の受験や越境入学の手段を使い他の中学に逃げる。また、進学させた親はその多くが腹をくくり、小学校時代に培った保身術や生徒の情報収集に努め多発する問題行動の渦中に巻きかまれぬように行動させる。学校に関してもより深刻な問題は学校との連絡を取り合ったりして解決を目指す。学校に対してベストを期待しないが過度な暴力や犯罪行為に関しては躊躇なく警察へ被害届を提出する。
また警察の少年課と学校、教育委員会との関係はかなり密であり、生徒の問題行動はすべて教育委員会の指導室に事細かく報告する。そのペースは一か月に3回以上というときも多く学校内でうやむやになることはなかった。かといって委員会からの具体的な指示があるということも多くなかったように記憶している。教育主事の定期訪問も上から目線ではなく、日々の教師の苦労を慰労する発言が多く教師の心と体の健康を気遣う内容が多かった。
こうして夏休み前まではまさにワンダーな世界が展開されるわけだが、その間に、非常勤教師などが、長欠のち臨時退職したり、原因不明の下痢や発熱などによって1週間ほど、療養休暇を取る教師が出たりするのだ。故にこの学校は「配置困難校」と看做され、加配(規定より多い教師が送られる)されているのだ。
2学期
何とか夏休みまでたどり着くとひと山越えたことになる。夏休みの部活動で生徒との関係が密になり、萎えつつある教師たちのエネルギーが再補填されて、2学期を迎えることになる。2学期は体育大会があり、この機会に一つの目標に向かってクラスが団結する。クラス対抗の応援合戦などは効果的でより良い生徒間の人間関係が構築されてくる。1学期に発生したトラブルの多くがこの段階で解決されてくる。しかしその分、このような取り組みに対しても関わってこない問題生徒は逆に先鋭化してくる。人数は5〜6人と数は減るが、パワーアップした状態で問題行動を起こす。そのいくつかは、警察機関の厄介になることもあり、例えば、ワラビ餅屋の移動屋台で無銭飲食をしでかしたり、飲酒してスパーマーケットの定員に暴行したりなどだ。
学校内ではこれらの生徒とその他の生徒という線引きがなされ、対処も変わってくる。中学校でのクラス崩壊はだいたい特定の教科で発生するので、1学期よりは手間は減るが教室での教師5人態勢は特定の教科に対して継続している。しかし、先鋭化した生徒たちが登校しなくなるとクラスの崩壊状況は逆に緩和されることもある。
2学期の11月ごろには文化祭などで、合唱コンクールなどが実施されると(当然会場でのトラブルはいくつか発生するが)さすがに、かなり落ち着いてくる。体育大会、文化祭、球技大会などは学年を落ち着かせるカンフル剤なのだ。12月の3者懇談会などではお互いの気心が知れてきて、穏やかになってくる。しかし箸にも棒にもかからない親はやはりいて、手間と時間がかかる。
3学期
3学期になると、問題生徒のなかで全く登校しない生徒がいる一方で外でのお遊びに飽きた生徒が学校へ戻ってくることになる。登校しない生徒は対応がまた別次元のものとなるが、舞い戻ってきた生徒は、学校内を徘徊して喫煙や破壊行為などを繰り返し、ますます孤立化していく。さすがに教室へ戻すということはしない。しても、授業妨害をしないことを約束させる。守られないと下校させる。
荒れていたクラスが落ち着いてくるが、今度は、落ち着いていたクラスが崩れてくることもある。原因は生徒間の力関係の序列が変化したことにあったり、全く授業が分からなくなり、騒ぎ始めるといったことや転入生によって秩序が崩れたりするのだ。転入生は通常落ち着いたクラスに入れられるのだが、問題のある転入生だと一から仕切り直しである。3学期は「2年生のクラス編成と教師の人事で解決する」などといったプラス思考を持って乗り切る。生徒間や教師生徒間での関係がより良好になる状況が見えてくるとやる気は出てくる。しかしこの学校の場合3年の勤務期間を全うした教師の幾人かは他中学校への転出を希望する(今よりはましになるだろうという目論見)ので人事はどうなるかわからない。悩みは尽きないのである。
2年生3年生と進むにつれて、環境は着実に良くなっていく。この学校はそのような3年先を見越した運営方法で取り組んでいるので生徒たちもなじんでくる。また、家庭よりは学校のほうが快適であるとの認識を、厳しい家庭環境にある生徒が持ち始め、学校での人間関係を大事にしようとする心も育ってくる。こうなれば、教師もやりがいというのも出てくるものだ。
ただ、管理職が無能な場合、例えば目先の改善を性急にもとめ、教師のフォローやクレーマーな親への対処に、逃げてしまう管理職であると、この3年体制が崩壊することもあるので要注意である。
この学校では、校則などのコンプライアンスのレベルが他の中学校よりも、低めに設定されていて、その分絶対に守らせることや育てるべきことが、明白になっている。また、個々の教師の能力に責任を期するという発想はなく、全員で対処するのが前提なので、通常の教師のプライドなどはかなぐり捨て、一日あった嫌なことは、どんなに遅くなってもその日のうちに解決し明日へ持ち込まない。昨日トラぶった生徒にも翌日は何もなかったの如く接するような、ふてぶてしさとしぶとさが身についていれば何とかなるのである。
2年生の12月上旬、親子を交えた保護者会が実施される。この時、親から「今のこの子の成績ならばどのような高校に行けますか?」という質問を受けることがある。教師によっては、まだ成績の大きな変動があるので具体的な情報提供は控えたほうがよいという意見もある。
しかし、私はこの質問に対し、昨年度の進学資料を基にオール4ぐらいあればこのくらいの学校などという話をする。「やっぱり、そろそろ受験のことを考えなくてはいけませんね」という発言が親から出される。「そうですね、そのような気持ちを親子で共有することは必要ですね」と答えることにしている。この具体的な成績の情報提供によって「受験生になるのだ」という「心の準備」を親子ともさせるのだ。このことは受験への心構えを固めるための「第1ステージ」となる。
もちろん1年から、進路学習において、どんな仕事があるか?自分はどのような将来設計を立てているか?そのためにはどんな学歴や資格が必要か?などは考えさせてきた。
第2ステージは、2年3学期。より具体的に高校への体験学習を実施したり、第3希望まで進路希望を書かせたりして、3年生にむけての「覚悟」を待たせる。
第3ステージは、3年生の5月上旬の全体保護者会で校長から推薦などを受けるための心構え、例えば「触法行為」を起こした場合、推薦は受けられないなどのお達しがなされる。また、中間テストから内申書に深くかかわってくることを確認しておく。
第4ステージは夏休み前の3者による保護者会で、夏休みの生活や個々の学習目標が話し合われ受験生として「腹を括らせる」のだ。
第5ステージは2学期10月下旬、具体的な進路決定の流れが始まる。進路希望調査が実施され、スポーツ推薦などの対象生徒の高校サイドとの面接なども行われる。11月には生徒と教師の進路関係の教育相談が持たれ、第6ステージとなる私立学校の決定(12月上旬)と準備(願書配布・内申書・推薦書作成)がなされる。
第7ステージは1月下旬、公立受検生徒を対象とした3者面談が実施され、あとは、私立、公立の受験を受けていくことになる。
ところで成績が振るわない生徒は、第4ステージまでに段階的に受験生として「腹を括る」という体制になりきれない場合が多い。
その多くは、「何とかしてくれる」「まだ遊べる」「2学期に頑張ればよい」などと、受験生としての葛藤や苦労を先延ばしにして、いわば現実からの逃避行動をとり続ける。確かに少子化しており高校も定員割れするところもあるが、経済状態、高校の学習・生活環境や通学時間などを考えると生徒の希望に沿う学校は意外に少ない。
ゆえにこのような生徒は第5・6ステージ以降の進路決定の流れにも乗れず、また成績の達成目標も定まらず勉強に身が入らないのだ。
しかし「用意周到」に受験に向けての準備を整えていくというのは、難しいように思えるが第1ステージからぼちぼちやっていけば、さほど苦しいものではないし、また自分の力を知るとか、それを上げていくなどのモチペーションを高めることもできる。
この受験校を決め合格するまでの流れに乗り遅れた生徒もしくはまったく乗れなかった生徒たちはどうするか?この乗り遅れた生徒は一応、受験モードにはなったのだから、遅れを取り戻すべく努力するしかない。後者については担任の先生にすがり付くしかないだろう。ただしそれも冬休み前まで。生活面で問題なく(触法行為がない)、授業態度、遅刻、提出物などが改善されれば少なくとも「高校」と名の付くところには行かせてもらえるかもしれない。ただし、高校生活が続くかどうかは、かなり厳しい現実が待っている。
この期に及んでも進学先の選り好みをするようであるのならば、受験する自由はあるので、希望校全滅を「覚悟」して突っ込むしかない。
受験に関わる教師はごらんのように、行き先を決定してくれるのではなく「サポート」し「お見送り」する存在なのである。
ところで私の高校進学に関する見通しはかなり悲観的である。公立高校の授業料無償化は実行されたが、これ以上の劇的な国からのサポートは当分ないように思う。また他の先進国と同様に日本においても中産階級はほぼ消滅し、一部の富裕層と多数の貧困層の2分化が進んだ。富裕層は教育においても経済力に比例して優遇され、貧困層には「自己責任」が求められる。そんな時代状況において私から生徒たちに発する応援メッセージは「逃げす」「したたかに」「やれる時にやれる事をやり切る」というものである。
1、クルマとピアノ
あなたには小中学生の子供がいたとします。200万円ほど貯蓄があったとして、あなたはその使い道として@少々古くなってきたクルマ(まだ5年は使える)を買い替えるか、Aそれともピアノをアップライトからグランドピアノへとグレードアップするか。
Aを選ぶとしたら、あなたは親からすばらしい文化資本を継承されてきたと思います。たとえ自分が育てられたころよりも裕福ではない現状であっても@を我慢しAを選択するその心性は何にも増して得難いものです。
グランドピアノはより高度な楽曲をトライする可能性を子どもに与えてくれます。おそらくあなたは親からもそのような経験をさせてもらい、より高度な芸術文化というものを体験させてもらったがゆえに自分の子どもに対してもAの選択をしたのでしょう。もちろん子どものピアノ教育に関してはそこに至るまで親子とも並々ならの努力や忍耐力、モティペーションが維持されなければなりませんが。さらにあなた自身もピアノを継続しているのならなおさらよいですね。
2、読み聞かせとビデオ
あなたには4〜7歳の子どもがいます。共働きで父母ともに子供と接する時間は少なく、しかもくたくた。この状態のとき@撮りためたビデオ(アニメや体操もの)を子どもに与え見せ続けるかA毎晩欠かさず、様々なジャンルの本を読み聞かせるという手間を惜しまないか。
Aを選ぶ人は自分も親から、お気に入りの童話や物語本を読み聞かせてもらったのでしょう。きっとその読み聞かせ方もまるで声優さんのような声色で3つ4つ変えながら、また時に内容のアレンジや歌なども交えて読み聞かせてもらったかもしれません。以後、子どもは文字に慣れ親しみ、本好きで、情報の受け手としては能動的な感性が育ち、拡散する情報に対しただ鵜呑みにせず批判的観点を付加させて情報を収取選択することができるでしょう。
3、受動消費型のレジャーと体験・学習型のレジャー
あなたは子どもとのレジャーにおいて、@巨大レジャーランドなどの受動消費型のものとA体験・学習型のモノとの比率はどうなっていますか?
もしもAが多いとしたら、以後も旅先でそのようなオプションがあったら、子どもは「やってみたい」という感性を膨らませてきます。当然親も一緒に楽しむことになるのですが、夏休みの感想文などを読んでいるとそんな思い出とその時感じたことなどが盛りだくさんになっています。ネタの引き出しが多いとでも言えましょうか。
3、土日の安近短のお出かけにおいて@モール街などでの時間つぶしかA演劇鑑賞や博物館・美術館巡りか。どちらが多いですか。Aが結構あるとしたら、あなた自身が好きなのでしょう。子どもも当然、付き合います。演劇などは子どもが理解できない時「どうして」「なぜ」と質問してきます。あなたは自分なりの解釈でこどもに答えることになるでしょう。自分自身が感動したその思いを熱く子どもに伝えるのです。その後もそれに対して「どうして」「なぜ」「どうなるの」といった質問が続くかもしれません。演劇鑑賞は鑑賞後のイメージがさらに膨らむ要素が多いのです。故に、同じ題目の舞台劇であってもファンは何度でも鑑賞します。新たな発見があるのだといえましょう。
文化資本は親から子へ、さらに次の世代へと継承されていきます。たとえ経済的に厳しくなっても必要なことを必要な時に行う。そのため、節約や収取選択を慎重に深く吟味する。
例えば新本は買えなくても図書館に行けば借られます。本のリサイクルショップも充実しています。海外旅行に行けなくても身近なところで体験学習型のレジャーは多いものです。あるいは地域の伝統的なフォークロアに参加しインボルブ(文化の伝承)するのもよいでしょう。やり手が減少している分だけ参加すれば手厚く面倒見てくれますよ。
現在の日本は経済的には新興国に押されていますが、消費型レジャーの拡大が進む一方で能動的な文化的行為の成熟も進んでいます。経済力や住む環境に格差があり、広がっているといわれますが、他方で身近に子供が学ぶ場や体験する環境も豊富に用意されています。後はそれを親がどれだけ使いこなせるか。これこそが親が文化資本をどれほど受け継いだかによる違い=差異として出てくるのです。
生活が苦しくなる昨今ではありますが、だからこそ家計をやりくりして子どもにはしっかり文化資本を投入しましょう。
スポーツ系の部活動顧問を20年ほどやってきた。県大会出場まではいったが、全国大会まではなかった。なぜかというと、顧問としての技術的な力量がなかったことと、忍耐力もなかったからだろう。全国大会出場まで、生徒を育て上げるには、それこそ1年365日休みはテスト前の1週間ほどとその他盆や正月の6日位で残りは部活動を続けていかなければならない。顧問も生徒も連日の朝練習や休日練習、長期休業もすべて部活動にささげるだけの覚悟と我慢、忍耐力すなわち「根性」が必要である。もちろん、保護者の受け入れ態勢もなくてはならない。
また、そのようなハードな練習をしたからといって、よい成果が上るわけではない。生徒の能力や親の経済的支援の有無、顧問の戦略的な力量(注1)も求められる。さらに、他県にも知られる実力を維持していかなければならない。そのためには県大会以上で3位入賞以上の成果をあげることが、必要十分条件なのだ。この成果があれば、それを目的として生徒は集まってくる。もちろん、その実現に必要な条件を備えた生徒や保護者が多い。まあ、学校教育とは次元の異なる別世界のセミプロ的なものではある。
しかしながら、着実に成果をあげることのできない、普通の部活動レベルでありながら、活動量や生活の締め付けを強化している部活動は多い。また生活指導上の観点から、授業後の生徒管理の手段として部活動が運営されることもある。進路などの推薦材料としても3年間の粘り強い取り組みはそれだけで成果として認められる場合もある。
ところで最近、下部での準公式的な試合が増えてきている。これは、県大会までいけない普通の部活動にそれなりの成果を与えるために、複数校の顧問らが協力して区大会や市大会の地区を西部とか東部とかに細分化して、賞状を与える機会を増やそうという考えだ。小さな手作り動員体制ともいえよう。すくなくとも3つぐらい勝ち上ると表彰授与を校内で披露できるという目論見である。
部活動顧問を生きがいにしている教師にとっては、成果を増やすことができてさらにやりがいも出てくる。生徒にとってみれば、忍耐強く部活をやり続けていれば、賞状を得られるという成果を手にすることができる。
しかし反面、無理やり顧問を押しつけられた教師は試合が増えてますます生活に余裕がなくなる。
また以前スポーツ等の部活動をやり続けることで根性・忍耐力が身についてくるという言説があったが、今は学校教育というシステムの中から、こぼれ出る生徒をさらに取り込むサブの役割を与えられ「根性・忍耐力」のみならず「社会性」をも身に着けさせるという教育言説に変わっていった。
これは「主体性」を身に着けつつ「社会性」をも両立させていくという難しい指導法に起因するが、スポーツ系の部活動はこれがわかりやすくやりやすい一つの手段となる。しかし反面、社会性の中に内在する「同調圧力」のみが部活動では肥大化してくる。部活動内でのいじめや退部後の生活の乱れなどは過度の「同調圧力」の影響が多い。
それではなぜ、部活動の顧問や生徒たちはこの「同調圧力」を無意識のうちに高めていってしまうのか?それはこのような活動の中に「喜び・歓喜」というものがあるからだ。みんなで苦労しながら活動し、細分化された成果(下部大会の増加)を幾度も手にすること。そこでみんなが「喜び・歓喜」を得ることができるからだ。それは練習試合やいくつも用意された公式・準公式の大会によって「今そこですぐに感じる」ことのできるものだ。
さらにはそれが成長し生きぬいていくための「ちから(力)」となっていくと顧問や生徒は実感・・するのである。
部活動に参加している子供が派手な色のTシャツに「○○部に青春を捧げます・・」などの文字の入ったものを練習着として身に着けた時、「喜びを通じて力を」(注2)の第一歩がスタートしたのである。
注1;戦略的力量とは民間スポーツクラブチームとの連携や企業などのスポーツ部との合同練習、県を超える広範囲の練習試合などをセッティングする交渉力
注2;この「喜びを通じて力を」の教育戦略はそのルーツを戦前のナチスドイツの「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」=「歓喜力行団」として知られているもので、決して新しいものではない。
進路に関わる学校の受験生や家庭の問題について (日本評論社 掲載)
進路に関わる学校と受験生や家庭の問題について
推薦に関わる事件
中学校1年生のときに「万引き(触法行為)があった」という事実無根の情報によって高校入試での「学校推薦」を拒否された生徒が、自殺するという痛ましい事件があった。推薦されなかったことと自殺との因果関係はまだはっきりしていないが、高校受験というものがとても厄介であり受験生や家族に相当なストレスをかけており、それによって時には心身を病んでしまうことも起こっている。
そこで、このやっかいな高校受験に関してどのような選抜システムが中学校や高校において構築され稼働しているのかを以下に述べてみたい。
私学単願推薦基準とは何か
私学単願受験での、学校推薦とはどういうものか、またその推薦基準とはどうなっているのだろうか。
もともと、私学に単願受験するという入試システムは、古くからあった、60歳に至る私自身の高校受験においても私学の単願受験は実施されていた。この時は中学校の推薦などというシステムはなかった。通知表の合計(おもに3年生2学期のもの)あるいは業者による県単位の統一テストの結果などをもとに、ボーダーラインが各高校によって設定されそれが合否の「基準」の目安となっていた。この条件が満たされていれば、受験すれば必ず合格するという「確約」を高校サイドからもらうことができた。
ただしこの「基準」なるものかなり癖もので高校によっては、どの中学校に対してもおなじ「基準」を設定するところもあれば、中学校の生徒の質のレベルに応じてこの「基準」を上げ下げして調節する高校もあった。例えば、A公立中学校は環境の良い、統一模試の成績がトータルで優秀な中学校とすると、高校は「基準」を下げて提示する。逆にB公立中学校は環境の良くない学校で、時々新聞沙汰にもなるような事件を起こす学校であれば「基準」を上げる(入りにくくする)などの調節がされるのだ。
もともとこの基準は進路担当の先生などを県単位で一堂に集めて、内々に公表するが(注1)実際にはこのような「裏基準」を用意して各学校の進路指導主事や校長と各高校の渉外担当の教師との間で個別交渉がなされるのだ。
渉外担当の役割
ところでこの「渉外担当」というのは公立中学校の校長などの退職後の再就職先となっており中学校の実態をよく知っている彼らを高校サイドがスカウトしてその高校の実態に合った生徒を集めてもらおうとするものだ。この仕事は「天下り」とまではいかない厳しいものがある。質の良くない生徒や中途退学してしまう生徒を集めてしまうと、結果として高校そのものの質の低下につながり、高校の存亡に関わってくる。また「基準」を高めに設定して、強気で交渉を行うと、生徒が集まらず定員割れを起こす。それはそのまま、高校教師のリストラにつながることになる。それを回避するためとやむおえず基準を下げ再交渉にやってくる。その段階では中学校サイドでは元の基準で生徒を絞っているので「基準」が甘くなると、生徒間でも不信が募ってくる。「この成績では無理だったはずではないか」という具合に。
教師も「基準」がころころ変わる高校は、足元を見てさらに低い成績の生徒の受け入れを強行してくる。この辺がうまくできない渉外担当は、次の年の契約はない場合も出てくるのだ。
中学校の生徒推薦というシステム
現在は、少子化がすすみ高校へ進学する生徒の絶対数が減ってしまった。そこで、高校サイドの生き残りをかけた戦略として、より良い生徒を確保するために中学校サイドが単願受験する生徒に対して生徒の「品質保障」をしろというのが「推薦システム」だ。
例えば、触法行為などの非行歴はない。欠席は3日を超える場合は理由をつける。対教師暴力や人間関係において深刻なトラブルを頻発させていない。部活を3年間粘り強く続けた。ボランティア活動などでの実績等々。その生徒が、入学した高校において大きなトラブルを起こさず、また、成績不振や不登校などで中途退学をしないなどの「保障」を中学校サイドにさせるというものだ。(注2)
この推薦制度の実施は以前の中学校の進路指導主事と高校の渉外担当教師との不透明な交渉をある程度具体的に可視化することはできた。しかし反面、進学に関しての中学校の教師権力を強める結果となったのも事実だ。先の誤認による悲劇は中学卒業後の進学に対して教師の恣意的な権力が強化されていたという例証であろう。
このような、進路指導の選抜システムを見ていると学校というシステムが単に生徒に知識を与え、学習させ、規律訓育を身体に施し、社会性を育成させるというだけにとどまるものではない「シャドウ」な実践(微視的な権力に基ずく行為)があることを知らなければならない。それは生徒の「ドキョメント化」である。
人物推薦基準と元となる生徒の「ドキュメント化」
教師たちは、日々、生徒の学習態度、発言状況、定期テストや小テストなどでの結果の記録、道徳や学級会活動などで利用されたワークシートの記録、連絡帳や生活の記録のチェックとその問題点のメモ、体育大会の活躍状況、野外学習や修学旅行での役割とその反省などの記録等々、あらゆるものが記録されていく。その紙面による記録の量は膨大なものとなっており、さらにそれはパソコンに個人記録として蓄積されていく。(注3)
さらには生活指導部会が、週一で実施され各学年の一週間に発生した、学校での生徒間のトラブルや不登校、けが、悩み相談、学習態度の悪化、提出物不良や遅刻、生徒のあからさまな、あるいは微細な否定的な態度変化、保護者とのトラブルなどが、細かく時系列的にレポートされその指導の効果・結果や対策が記載されたものが報告される。またこれらの情報共有を図るため、その冊子が教師全員に回覧される。さらに月一度の職員会議で、「いじめ等対策委員会」などの名目で各学年の生活指導担当者から報告もされる。
このように生徒の学校生活のドキュメント化は日々膨大な量で蓄積されていく。そこで例えばある生徒が自殺をほのめかしたり、自傷行為に走ったりしてより深刻さが増したときには、その記録が口頭のみならず文書として教育委員会に報告がなされるのである。
これらの生徒のドキュメン化と教師間での情報共有によって、生徒のイメージというものが教師一人一人につくられ、細かい情報の更新によって修正されつつ全教師の共通イメージとして定着する。これが、3年生の教師サイドによる推薦基準の重要な判断材料になるのだ。
教師による生徒管理のシステム化と推薦するという権力執行
この生徒のドキュメント化が進むにつれ、それに派生して、例えばどこまでが教師の指導になるのか、どこからが専門医やカウンセラーや支援学習教師(ADHDやアスペルガー、あるいは境界線児の対応サポート)による事案となるのかなどの対策が鮮明にシステム化された。最近は問題生徒の出校停止という校長裁決の最終段階の前に、どの分野のサポーターに振り分けるのかという指導システムの分類のノウハウが確立してきている。
進学における、学校推薦はこのようなドキュメント化の蓄積のもとに、生徒の資質が判断されその可否が決まってくる。それに準じて非行&触法行為はどの時期まで許されるかなどが生徒と保護者にアナウンスされる。通常は中2までは触法行為があっても中3の4月以降、生活態度が改善され触法行為や悪質な非行がなされない場合、推薦の対象となる。
しかし、それぞれの学校の状況によって、この時期が中2まで下がってくることもある。問題生徒に見られることだが、中2まではやりたい放題でも、中3になったらおとなしくすればよいという「手のひら返し作戦」に出る常識の通じない生徒もいるわけで、こういう生徒の対策としては、前倒しもあるのだ。
ところでこのような生徒指導の厳罰化はおおむね「配置困難校」と呼ばれる学校においてその立て直し対策として実施される。このような学校は、管理職よりも生徒指導主事の力量のほうが上である場合が多い。また他の教師との情報共有・指導方法の話し合いなどの時間を十分取ることができず、むしろよりスピーディーに生徒指導主事を頂点とするトップダウンで問題行動対策が決められ、管理職はそれを追認するという場合が多くなる。
また、配置困難校の一般教師はその日のその授業が凌げれば良しという感性を持つ場合もあるので、このトップダウンの決定に反対することはあまりない。先の事実誤認による推薦否定は学校の混乱状況とその収拾に向けてのトップダウン決定で、どうしても3番手4番手の軽度問題生徒への手厚い生活指導は省略され、情報伝達のミスが発生したものと思われる。
さらに今の中学校は慢性的に忙しい状態にある。実際、中学校教師の長時間労働の実態が月に100時間を超えるという調査報告もある(注4)。先ほど述べた、生徒指導と進路指導における情報交換の連携ミスは単に個人的あるいは学校単位の瑕疵のみに帰するものではない。教師の働く状況という視点からも考察する必要があるだろう。
進路に関わる受験生と家庭の問題について
中学校3年生4月、公立中学校に在籍する生徒やその保護者は進学にむけて本腰を入れることになる。その前段階として例えば5教科の受験用補助教材をどれにするかの提案・承認などが、通常は2年3学期の全体保護者会でなされるのである。しかし学校によってはさらに早く進路補助教材が決定され、その補助教材の1〜2年生の復習部分を2年生3学期に実施する学校もある。
中学2年12月の3者保護者会の内容
中学2年生の12上旬に始まる、3者保護者会から、進路を意識した相談が始まる。
この保護者会では「今の成績で、どのような高校が受験できるか」あるいは具体的に「○○高校は今の成績を維持すれば合格できるか」などの質問も出てくる。教師サイドとしては「わからない」とも言えず、昨年度の合否ラインの資料などをもとに、大雑把に答えるようにはしている。しかし合否ラインは年によって変動する場合もあるので、具体的な数字などを使って「学年順位が何〇番以内なら合格できる」とか「通知表の評定合計が〇〇点以上あれば大丈夫」といった確定的な答え方はしない。
特にこのような具体的な質問をしてくる生徒や保護者は受験に関する関心が高いのでネットや塾の資料などを調査したうえでほぼ「確認」としての質問である場合も多い。それに、明らかに高い偏差値を必要とする高校ではなく、毎年合格ラインが変動してくる高校に関して鋭い質問をしてくることもある。進路指導主事が合格ライン決定に悩む高校でもあるので厄介ではある。
ところで、3年生の受験体制を迎える前段階の心構えとしては、やはり2年生の12月頃から、あと4ヶ月ほどで受験生になるのだという「心の覚悟」を持つことは必要であろう。
この段階ではまだ早いという意見もある。しかし実際は、3年生になって態度を改め受験に向けて猛烈に勉強したところで、大きく成績が上昇するというのは稀なことである。むしろ、より格差がついてしまうか、2年の時には良い成果をあげていた生徒がどんどん成績を下げてしまう例のほうが多い。成績分布も成績下位と上位に人数が集まる、二こぶラクダ型の分布が顕著になってくる。成績の格差がより拡がっているのだ。
従って高い目標を立てて自滅していくよりもむしろ成績の現状維持を図りつつ点数を稼げるところでこまめに良い成果を積み重ねていくという努力によって下位の位置から少しずつ上位へスライドさせていく方がより効果的である場合もある。
3年生の4月からの心得
中学校3年生の4月の保護者会で、まずは生活の心得として、校長から「今、この時点から法に触れるような非行があった場合、私立・公立の推薦はしない」といった宣言もなされる。
多くの生徒・保護者にとって、あと9か月余りで進学校を決め、そこに合格をしていくというのはとてもやっかいで大変だ。また高校進学後も3年間ドロップアウトすることなく継続して高校生活を送っていかなければならない。そのためには、高校の環境が自分にあっているのかという「マッチング」の問題が出てくる。
その条件としては、集まる生徒の質や学校の教育体制、費用対策(例えば公立高校の授業料は無料である)私学は補助対象(収入などの判定に基づく)にない場合は費用はかなりの負担となる。また場所の問題として遠い高校だと、交通費や生活リズムが大きく変化する。
進学先の生徒の質という点からすれば、あまりよくない環境の高校であれば中途退学者が多く、3年間続かない恐れもある。もちろんこのような学校では、よりきめ細やかな学習支援体制が敷かれ、成果をあげているところもある。また他方で、同じ学校でありながら、合格基準を上げた大学進学コースといった別環境を作って、大学進学を強力にサポートする高校もある。このコースでは、部活動入部禁止、7時間目授業の設置、長期休業におけるハードな受験対策講座の開設、あるいは有名大学に合格した場合の受験料や学費補助制度などの経済的支援(これは高校入学時に特別コースに合格した場合、高校の授業料の一部、半額、全額免除なども含んでいる)もある。校内にエリートコースを作るわけだがこれは反面、成果主義が導入されるため、落ちこぼれると不登校や退学の引き金になってしまう負の部分もある。
また少子化の時代において、生徒の取り合いとなる現状では、高校の学習・生活環境のレベルアップが必要不可欠のものとなり、それが高校存続の死活問題となってくる。
中学校における推薦する、しないの判定が、通知表などの内申点に留まらず「触法行為になった非行」の有無といった条項として設定されるのは、高校の生徒の質の向上という戦略の入り口対策にも連動しているのだ。
そのような状況下において生徒や保護者は受験に向けどのような心構えや準備が必要になるのか述べていく。
己を知るための5つのレベルの認識と対策
まずは生徒本人の進学への意欲と学習力を判定・自覚することである。そこで以下において5つのレベルで考えてみよう。
レベル0〜まったく勉強する意思がなく進学の希望もない。受験のために何とかしようという学習のエネルギー=学習力が0というもの。
レベル1〜進学したいが何をしたらよいかわからない。
レベル2〜希望校に合格するために努力しているが成果が出ない。
レベル3〜希望校に合格する可能性が50%である。70%以上の可能性のある学校はあるがそこへは行きたくない。
レベル4〜希望校への合格可能性が高いと担任に言われた。
レベル5〜名門校の合格の勝算あり。
この0〜5のレベルのどこに自分が位置するかを自己(保護者)認識する必要がある。
レベル0はもともとの学習エネルギーが低いか何らかの家庭事情によって進学をあきらめた例である。スクーリングのシステムとは違うオルタナティブな進路を模索しなければならない。ただし、そのような思考を持つ能力やエネルギーもない場合もあるので、この場合、現状の公的教育システムにおいて対策はない。
レベル1は、まずはテストの点のアップよりは、提出物や授業態度を良くする努力が必要だ。遅刻や授業中の居眠りなどは気力でがまんする。進路先は担任にお任せして、それに従う。ただし、高校就学を維持できる経済的なチェックは必要であろう。
レベル2は高望みをせず、必ず合格すると思われる高校を抑えとして受験しておき、希望校にチャレンジする。
レベル3は合格70%の高校の良さを調べ発見することである。例えば、そこに入学すれば、学年順位は常にトップレベルになれるなどということだ。あるいは、大学の推薦枠を多くもっているなども、有利な情報である。(おおむねレベルの高い学校は、自力で大学進学を求められるケースが多いことも知っておきたい)。
レベル4はその高校がかなりレベルの高い高校であるならば、進路指導の教師に過去に合格できなかった生徒の気質などの情報をキャッチしておく必要がある。よくあるケースとして受験当日、頭が真っ白になってしまった。不眠症となり体調が崩れる。マイナス思考であるなど。これに自分が当てはまらないか認識しておく。特に頭が真っ白になるというのは受験当日初めて経験する現象である場合が多いので厄介だ。しかし、こうなるとまず不合格になる場合が多いので仕方がない。本人及び保護者もその性格・気質をよく見極めておく必要がある。次善の策として第2希望を2段階ほど下げておくなど、手堅く立てておくとよいだろう。
レベル5はインフルエンザや劇的天候不良の対策、公共機関(鉄道)の人身事故や渋滞(バス)に注意し、時間に余裕を持って受験校に行くようにする。
家庭の経済破たんや中途退学に関して
最近の高校は少子化によってえり好みしなければ、どこかには入学できるが、親の経済破綻によって中途退学するというケースが、発生している。また、バイトなどをする機会も多いがそのために学業が疎かになり、進級できないこともある。高校の3年間は中学の3年間とは別物なので、新しい環境に適応できる能力とエネルギーを受験準備の段階で身に着けておく必要がある。
中学3年生の二学期10月。大半の生徒は受験に向けて学習意欲は旺盛である。その生徒たちの悩みの多くが、目標とする高校に合格する実力がまだ足りない、あるいは安定しないというところにあるだろう。あるいは、経済的な理由により私学などの進学が難しいということもある。保護者としては学資保険などの積立を地道に行っておく必要もあるかもしれない。
しかし最近の私学の補助制度はけっこう手厚いものもあるので、収入に応じて授業料や教材費が減額される場合もある。
ただし、家庭が様々な理由によって、貧困のスパイラルに陥ってしまって家族形態が崩壊してしまうと、高校進学・就学は困難を極めることになる。この解決策はまだ見えてこない。
悩める受験生に必要なことは、あきらめず投げ出さず、学習エネルギーを保ちつつ、様々なハードルを飛び越え「やり切る」力を身に着けておくことであろう。
(注1)一般には公表されない。しかし、ここ10年ほどは名門校といわれる学校では、ネット上に公開するところもある
(注2)高校に入学した生徒は3年間の生活態度や成績、進学先などが、渉外担当を通じて中学校に情報提供されるため、大幅な人物推薦のごまかしはすぐわかってしまうし、次年度以降の推薦基準を上げられてしまうリスクも発生する。
(注3)学校から個人情報が漏れるという事件がよく発生するがそれは単に、成績や住所が漏れるだけではない、生徒個々人の膨大な個人ドキュメントが漏れ出るということだ。
(注4)リスク・リポート 内田 良(名古屋大学大学院教育発達科学研究科・准教授)